戦争末期の1944年~45年、東京都内の保育園に通う3~6歳の園児50人以上と職員11人が、埼玉県平野村(現蓮田市)の寺に集団疎開した。全国初の「疎開保育園」。6歳の最年長園児として、親元を離れて約半年間を過ごした。
44年秋ごろ、自宅があった品川区は毎日のように空襲警報が鳴り、防空ごうに逃げ込む生活が続いた。11月には近所に焼夷(しょうい)弾が落ちた。通っていた戸越保育所は、同じ団体が運営する墨田区の愛育隣保館との合同疎開が決定。当時、学童疎開は始まっていたが、保育園の疎開は全国初だった。
「行ってくるね」。11月25日の国鉄大井町駅。日の丸の小旗を振る親たちに見送られ、満員電車に乗り込んだ。「疎開がどんなものか分からず、遠足のような気分だった」と回想する。
桶川駅を降りて砂利道を6キロ歩き、着いたのは妙楽寺という荒れ寺。雨戸のみの吹きさらしでガスや水道もなく、暖房器具は火鉢が二つだけという生活が始まった。日に日に寒さが増す季節。1日中火鉢から離れない園児もいた。...
母親が面会に来た時の喜びはひとしおだったが、別れの寂しさもよく覚えている。「境内の桜の木に乗り、母親の姿が見えなくなるまで手を振った」。寺は戦後に火事で建て替えられたが、その木は「見送り桜」と名付けられ、今も毎年花を咲かせている。
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