「習志野はついにやった。県民の夢にまで描いていた深紅の優勝旗が房総路にはいった」―。
1967年8月20日。習志野は夏の甲子園大会で全国制覇を果たした。戦前戦後を通じて、千葉県勢として初の快挙。しかも、その偉業を成し遂げたのは、創立わずか11年目、出場2度目の高校だった。千葉日報は翌21日付の1面で、「習志野 胸のすく金字塔」との見出しを立て、大々的に報じた。
初戦、堀越(東京)との開幕戦に勝って波に乗った習志野。エース石井好博、捕手で4番の醍醐恒男を中心とした活躍で勝利を重ねた。今大会の〝本命〟とされていた中京(愛知)との準決勝はピンチの連続だったが、3対2の僅差で競り勝ち、決勝に駒を進めた。
広陵(広島)との決勝は一回、習志野の3番打者・池田の2点ホームランで先制し、六回にも相手投手の乱れに乗じて加点。その後も攻撃の手を緩めず、14安打を浴びせる猛攻で一方的な展開へ持ち込んだ。投手の石井は「準決勝で苦しんだ分、決勝は気持ちが楽だった」と振り返っている。
石井は1失点に抑え、最後はストレートを投げ、相手打者を空振り三振に。7対1の圧勝だった。6万人の大観衆が沸いた「日本一の瞬間」を千葉日報はこう報じている。
「石井がマウンドをかけおりホームベースから走り寄った醍醐と抱き合って喜ぶ。狂乱のアルプススタンド前に並んだナイン。応援席から『よくやった』と声が飛ぶ。目をしばたく市原監督。下を向いてくちびるをかみしめる山口主将、石井、醍醐…。スタンドからは〝顔を上げろ、胸を張れ〟の声が飛ぶが、ナインは一瞬顔を上げてもすぐに下を向く。涙を殺しているのだろう。県大会、東関東大会では〝勝って当たり前〟とも思わせる表情だったナインもきょうは違う」
この時、石井は「脇見もせずにやってきた高校野球が終わってしまうのだなって感じた」という。「もう一回高校野球に携われれば良いなと思った」とも話していた石井は、後に習志野の監督として2度目の甲子園制覇を果たしている。
試合後に行われた閉会式で習志野、広陵の両ナインがグラウンドに整列し、表彰が行われた。それを伝える記事にも、習志野の圧倒的な強さがにじんでいた。
「広陵のユニホームは真っ黒だったが、習志野はよごれがあまり目立たない。よごれる必要のないほど習志野は打った」
◆沿道に50万人、熱狂的な県民の歓迎
翌21日、郷土に戻り熱狂的な歓迎を受けた習志野ナイン。市川駅を下車した選手たちは、国道14号をオープンカーで千葉市までパレードした。
「栄光の郷土入り」「ファンにもみくちゃ」―。
沿道は優勝を祝福する人たちで埋め尽くされ、ビルというビルの窓から五色のテープや紙吹雪が舞い、まさに「県民総出」の歓迎ぶりだった。22日付の千葉日報は市川駅前の熱気をこう伝えている。
「習志野高ナインを迎える市川市民は、予定より1時間も早くから国鉄市川駅前を埋め尽くしていた。3時3分、ナインが同駅頭に降り立ったその瞬間、雨雲を吹き飛ばすかのように花火が打ち上げられ、万余の歓迎陣から拍手の渦が巻いた。(中略)しかし、すさまじいばかりの混雑で、渦巻きの中から山口久太校長の笑顔がもみくちゃの中に浮かぶだけ。富川市川市長は同日開かれていた臨時市議会を一時休憩、花束を持って駆けつけ、出迎えの吉野習志野市長に〝おめでとう〟と花束を渡すのもやっとだった」
ナインは県庁前広場で歓迎式に臨み、当時の友納武人知事らから祝福を受けた後、習志野市役所に戻った。この際、沿道には50万人近い県民が「人がき」をつくり、習志野チーム歓迎の一色に染まったという。信じられないほどの熱気と熱狂が、紙面からあふれている。

この優勝は一過性のブームに終わらず、その後、千葉県は銚子商業など全国屈指の強豪校がひしめき合う「野球王国」へと変貌していった。習志野による初の全国優勝は、県内の高校野球全体のレベルと意識を底上げする、大きな転換点となったと言えるだろう。(敬称略)
(デジタル編集部)
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千葉県民を熱くする夏の高校野球。球児たちの熱戦は、数々のドラマを生み出してきました。千葉日報オンラインでは今年、歴史に残る名場面を、創刊69年を迎えた本紙の過去の紙面をひもときながら紹介します。








