真っ青な空に、入道雲がもくもくと浮かんでいた-。終戦の日、1945年8月15日の空を今でも鮮明に覚えている。「毎年8月上旬になると、嫌な気持ちになる。15日を過ぎるとほっとするの」。44年夏、11歳で東京から和歌山に疎開し、米軍機の機銃掃射や空襲警報に逃げ回る毎日に「どうせ死ぬんだな」と考え生きていた日々を、今年も思い出す。
「暗い顔をしているでしょ。もう一生会えないのかなって考えていた」。通っていた東京都中野区の桃園第三国民学校で、学童疎開を前にクラスで撮影した集合写真を眺めながらつぶやく。国民学校6年だった44年夏、和歌山県藤田村(現御坊市)の母方の祖父母宅に弟2人と縁故疎開をした。
それぞれ国民学校4年と2年だった弟2人は、疎開先で汽車を見るたびに「家に帰りたい」と泣いたが、「自分はそんな感情もなかった。ただ、私の命はいつまであるのか考えていた」。
45年春に国民学校を卒業後、県立日高高等女学校に入学した。しかし学徒動員のため、毎日勉強ができたのは最初の1カ月ほど。その後は防御陣地を造るため、浜辺の砂や砂利を運搬する作業をひたすら続けさせられた。
疎開しても、米軍の攻撃からは逃れられなかった。御坊市は、京阪神地区を攻撃し、...
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