江戸時代前期の17世紀中頃、銚子の外川港本浦の築港第1期工事が終わると、紀州からの移住者が増えて、外川港新浦の2期工事も3年ほどで完成。漁船を引き上げる場所として幅2間半で長さ21間の船引場46艘分を区画し、漁師や商人とその家族が住む町が造られていきました。
18世紀前半には、外川浦は八手網54張、網主54軒を中心に干鰯(ほしか)商人、水主(かこ)や干鰯労働者などが移入して、総勢約5千人の漁村となりました。このうち、網主と干鰯商人では広村、湯浅からの移住者が千人ほどになっていました。これは崎山次郎右衛門が広村出身だったからです。
後に「外川千軒」と言われるほどの街は方格状の形をなしています。インフラ整備に当たり「銚子木国会史」に次の記載があります(抜粋...
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