小説を新聞に連載 山本有三(2)

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 東京帝国大学独逸文学選科に入学した山本は、明治45年頃、本籍を本郷区駒込神明町に移し、故郷の栃木から母を呼び寄せた。家業であった呉服屋はこの時点で廃業となった。同年には匿名で脚本の懸賞に応募し賞金50円を得るなど才能を発揮し始めている。

 山本の演劇活動は多彩を極め、新派俳優・井上正夫や舞台監督・桝本清らとわが国初の野外劇を催し、泉鏡花の『紅玉』を上演して新風を巻き起こし、また、大正3年(27歳)には豊島与志雄、芥川龍之介、菊池寛、久米正雄らと第3次『新思潮』を興し、4月号に戯曲『女親』を発表。

 また9月には検定試験で高校卒業資格を習得し、帝大の本科生徒となり、遅れを取り戻している。学費欠乏のため郷里の大塚利兵衛より恩借。翌年卒業。卒業論文はハウプトマンについてで、普通の戯曲のように主人公が個人ではなく民衆全体である点に新鮮さを覚えている。

 新派三角同盟一座の座付作者となり、新富座で武者小路実篤の『二つの心』の舞台監督を務め、又地方巡業も経験する。

 大正6年に母の勧めで結婚するもののすぐに離婚。早稲田大学ドイツ語講師として就任後、英学者・本田増次郎娘・井岡はなと再婚。文学的素養に富み献身的なはなとの再婚は、山本に安定と家庭の幸せを与えた。

 この頃から戯曲執筆は軌道に乗り、『津村教授』、『生命の冠』、『嬰児殺し』、『坂崎出羽守』(尾上菊五郎の依頼で執筆)と彼の代表戯曲が毎年書かれ上演されていく。『嬰児殺し』は大正10年に有楽座で松本幸四郎の巡査で初演され、のち幾度も上演され、13年に松竹で映画化。山本の出世作となった。

 大正12年には6年間勤めていた早大講師を辞任。関東大震災を体験。『演劇新潮』を新潮社から創刊し編集長となっている。

 初めて小説に手を染めた小品「兄弟」が『新小説』に発表されると、里見弴から、山本君は長編も書ける人だとの批評を受けたという。大正15年には菊池寛の推薦を受け、東京朝日新聞学芸部長の土岐善麿の勧めで、長編小説の筆をとり炭坑を舞台にした『生きとし生けるもの』を9月から『東京・大阪朝日新聞』に連載。しかし風邪をこじらせ12月に中止。未完に止まっている。以後山本の連載はしばしば未完が多くなっていく。

 同年、菊池寛や芥川龍之介とはかり劇作家協会と小説家協会を合同させ、文芸家協会を設立。

 昭和3年には長編小説『波』を『東京・大阪朝日新聞』に連載。市川に行き江戸川で川遊びをする場面や、銚子の飯岡、霞が浦の汽船など千葉県ゆかりの話が挿入されている。