最大規模の戦争跡地 館山航空隊と赤山地下壕 【千葉地理学会連載 おもしろ半島ちばの地理再発見】

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城山からの航空基地方面
赤山地下壕の内部

 館山城は標高70メートルほどの城山の上にあるので、鏡ケ浦と呼ばれる館山湾が美しく望めます。

 そして、市街地の南西には海上自衛隊の館山航空基地が広がっています。その基地の北東と北西には小島のような地形を確認することができます。この地形はここに航空基地ができたことと深い関係があります。

 北東の森は高ノ島(鷹ノ島)と呼ばれる標高10メートルの小島で弁財天が祭られています。北西の小島はサンゴの北限地と知られる沖ノ島です。この二つの島付近は1922年の関東大震災の際に数メートルも隆起し、浅瀬になったので、そこを埋め立てて海軍の基地にしたのです。工事が完成して館山航空基地が発足したのは30年で、日本で5番目の航空基地でした。

 海をちょうど四角に埋め立てて航空母艦に見立てたとも、海沿いの土地は風が複雑に動いて航空機の発着訓練に適していたからともいわれています。こうして館山航空隊は首都防衛の重要な基地となりましたが、36年により大きな滑走路を持つ木更津航空隊が開設されると、館山は主に内地での訓練などの役割を持つようになりました。ここで訓練を受けた搭乗員たちが真珠湾攻撃にも参加したといわれています。

 戦争も末期になり航空隊も空襲を受けるようになったことと関係が深いと思われますが、基地のすぐ南西に赤山地下壕(ごう)が作られました。この建設については資料が残っておらず詳しいことはわからないのですが、壕そのものが現存しており、千葉県下でも最大規模の戦争遺跡だろうと思います。

 壕内には司令部や航空機部品の格納庫、兵器や燃料の貯蔵庫、そして病院や発電所までもがありました。地下壕というより合計1600メートルもある壕が張り巡らされた地下要塞とも言えるものでしょう。しかし、壕の平面図を見ると計画的に掘られたとは考えにくい構造です。一部存在していた壕を戦争末期になって広げていったということではないでしょうか。

 この壕は現在館山市の指定史跡となり、2004(平成16)年から見学が可能となっています。自衛隊基地のすぐ南側にある標高64メートルの赤山の中に掘り進められた壕のうち、およそ250メートルが公開されているのです。

 市営プール近くの受付で手続きをして、ヘルメットと懐中電灯を借りて壕に入ります。入ってすぐ気づくのが壕内の美しいしま模様の地層です。新生代第3紀の砂岩や泥岩などの地層が観察でき、思わず戦争遺跡であることを忘れてしまいそうになります。要所には照明と説明があり、進入禁止の場所も多くあります。壕全体の一部を進むだけですが、十分に壕の大きさを感じることができます。

 ここでもう一つ触れておきたいのが、壕のすぐ前の海岸が「米占領軍本隊本土初上陸地点」だということです。終戦から半月後、1945年9月3日午前9時20分に、前日の東京湾上ミズーリ号での降伏文書調印式を受け、米陸軍本隊3500名がここ館山の基地に上陸しました。

 上陸後の妨害を恐れた占領軍は、4日間のみでしたが、直接軍政を敷いたのです。戦後の占領政策の第一歩がここ館山から始まったと言えます。
(本稿は安房文化遺産フォーラムの「戦争遺跡」および館山市教育委員会赤山地下壕パンフレットを参照しました)

(秀明大・敬愛大非常勤講師 鎌田正男)