2020夏季千葉県高等学校野球大会 あの瞬間を捉えた写真も多数

女の尻を追う美学

 兼好の『徒然草』は古典のベストセラーだそうだが、私も凝っていて、ふつうでない言い回しなど楽しんでいる。

 やや長文だが、第三段を意訳してみる。

 「いろいろの面で優れていても、恋心を理解しないような男は、まったく索漠としていて物足りない。まるで、玉の杯の底がぬけているようなもので、外見はりっぱでも役立たずの感じだ。

 露や霜に濡れながら、あちこち女を求めてさまよい歩き、また一方で、親のいさめや世間の非難を気にして心の安まるひまもなく、あれこれと思い乱れ、それでも恋に心を奪われる、というふうに、恋愛の世界のとりこになる経験がなくては、人間としてのおもしろみもない。それでいながらこういう男は、かえって恋人と夜をともにすることもすくなく、独り寝がちになり、眠れぬ夜を過ごしてしまうものだ。だがこのあたりが、むしろ恋のふしぎさ、おもしろさであり、男としてのおもむきがある。とはいっても、ひたすら恋にだらしがなく、女の尻ばかり追いかけている、などと女たちから見くびられない在り方、それが男の望みであり、美学であろう」

 女を追いかける男に擬せられているのは、光源氏だといわれる。ふと『空蝉』の帖を思う。

 源氏は空蝉(うつせみ)の寝所に忍び込むが、さっと逃げられてしまい、彼女が残していった蝉の羽のような薄衣(うすぎぬ)を懐かしむ。

 第三段の『徒然草』の主意は、成就しない恋を追いかける男のロマン、そこには、女たちが決して見くびることのできない男の恋の美学がある、といったところ。

 私は『徒然草』のこの第三段が、兼好流の逆説含みで気に入っている。どこかで我が意を得ているようだ。

 恋の美学というほどのものでもないが、若いころ、私も女の尻を追いかけていた。尻を追いかけたといっても、性的興味とはべつで、ロマンと呼んでもらいたい。

 隣村の少女を、自然体で好きになった。私の恋愛パターンでは、夢中で好きになるのが常だったが、その少女の場合は、春風のように穏やかな恋だった。

 私の少女は空蝉のようには逃げなかった。川べりの土手に座り、二重(ふたえ)の目を上げて、耳障りでない声音で、未来の家庭の設計ついて話していた。

 隣り合わせに座って、静かな饒舌(じょうぜつ)を聞くのは楽しかった。少女は日向(ひなた)の草のような匂いがした。都会的センスと、農村の純朴さを合わせ持った美少女だった。...


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