日本史の中の郷土史(下)

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 戸村寿彦氏は、頼朝が西行に、将門・忠常・広常の鎮魂を依頼したのではないか、と推論する。

 源頼朝と平将門は、源平の仇敵同士であっても、個人的に頼朝が服喪までするという事情がやや鮮明でないが。

 ただ将門につながる忠常や広常、特に広常の場合はそれなりの事情が納得できる。

 総を支配する平広常と、下総を束(たば)ねる千葉常胤は、頼朝に味方し、平家追討に勲功を立てる。

 以来、常胤は頼朝に取り立てられるが、広常の方は頼朝の手で暗殺される。理由として、貴族志向の頼朝と、やぼな地方豪族の広常とでは、しょせんソリが合わなかったとされるが、根(ね)に源平のしこりも?

 このころになると、源平の対抗意識も退化し、それゆえに平広常が源頼朝に味方したとも考えられるが、執念はふと目覚めるかも…。

 頼朝の意を受けた西行は、山部赤人や小野小町伝説をもつ東金市山田郡を訪ね、当地で藤原基経を悼(いた)む上野峯雄の歌をパクった。

 「藤原基経は、若き日の将門が京で仕えた藤原忠平の父親です。その縁にヒントを得た西行が、基経を追悼する上野の作歌をパクリ、将門らの鎮魂歌にしたということでしょう。伝説では、そのとき、貞観寺の桜は、ほんとうに喪に服し、墨染に咲いたということです」

 戸村氏は、西行にとって桜は「呪(しゅ)のツール(道具)」だったと説明する。

 「だからこそ西行は、生涯に七百二十首余の桜にまつわる歌を残したのです。ところで、桜のエピソードからひろがった話ですが、東金市の観光協会では、市内に残る将門伝説に脚光をあてようと、茨城や東葛方面の将門伝承を持つ市町といっしょに、将門サミットの開催計画を進めることになりました」・・・