風刺感覚をくるむ

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 若いころは、人を恨んだり、非難したりしては、後でそれとなくさびしくなったが、それでも筋は通っていると思い、敵愾心(てきがいしん)もそれなりの満足を得ていたが。

 年を重ねて感情に変化を来(きた)した。人をそしり、けなすと、さびしさの度合が増し、自己満足どころか、そのまま自己嫌悪感に落ち込む。自尊心が自虐性を帯びる。

 かつて師友から、私の書く文章について、さりげなく所見などいただいたことがある。

 「風刺感覚をぬくもりがくるむ文章」

 というもので、ほめられたか、ほめられなかったか、分明でないままうれしかったが、その文章感覚も萎え、人を傷付けまいと気遣う余り、文章も追従文の趣を持ったようだ。

 私は県内三カ所に「文章教室」を持っているが、最近はよくほめるようになった。生徒は喜ぶというよりとまどっているふうだ。

 教育パターンに「ほめて育てる」というのがあり、かつて中学3年生を受け持った私にも体験がある。

 教室でも家庭でも、鞭を使うより、ほめて育成できればそれに越したことはない。ただし、ほめる言葉がアメ玉に変化すると、アメ玉同様にこちらがナメられることになり、育て方は失敗となる。

 私の「文章教室」の生徒は、平均年齢60歳というところだが、やはりアメ玉をしゃぶりたがり、しゃぶるうちに、それが「あたりまえ感覚」になっていくようで、新鮮味が落ちる。

 こうした悪循環は、すべて私の神経に生じた変化のせいらしい。恨んだり、非難したりすると、後悔のさびしさにさいなまれる。その不安から、つい追従のアメ玉を用意してしまうわけだ。

 そして、自分の文章感覚もただの「甘ちゃん感覚」になり、例えばエッセーを読んでくれる人にも、書かせてもらった人にも、その分の迷惑をかけるはずで、反省の要がある。

 まず自分の文章を取り戻そう。風刺感覚をぬくもりでくるむという師友の言、それを再考してみよう。.......