小説携え、露伴宅へ 正岡子規(9)

 子規が房総旅行(明治二十四年)から戻った同年夏から、「日本」新聞へ俳句の投稿を始めている。同夏には子規は木曾旅行に出立し松山に帰省。『かけはしの記』を翌二十五年六月に編んでいる。

 子規は十七歳ごろより俳句をたしなむが、徒歩と馬とによる房総旅行が子規に感化を与え、俳句に本腰を入れるきっかけへと導いたようだ。明治二十四年までの習作期を経て、翌年からは写実的な態度を確立して行くことになる。

 俳句に本腰を入れたのと同じころ、小説にも着手している。明治二十五年二月、子規が根岸に引っ越したばかりのころだが、幸田露伴の『風流仏』に感動した子規は、その趣向を取り入れた自作小説「月の都」を携え、天王寺畔の露伴宅を訪ねた。河東碧悟桐(へきごとう)への手紙で、次のような内容を述べている。

 露伴の批評を請うために訪ねたものの来客があり詳しく話す時間がなかった。そうしたところ簡単な手紙を添え「月の都」が返却されてきたので、三月一日に再度訪問。露伴に小説の話を聞いて感極まった。露伴は日本第一等の小説家だ、といった内容。

 この時の訪問について、のちの碧悟桐と露伴との会見録(昭和九年十一月六日)によると、子規は発表の紹介を願ったという。春陽堂へ紹介したものの上手く運ばす、露伴は弱ったと述べている。

 『風流仏』は明治二十二年五月に露伴の書いた小説で、露伴が上総の望陀郡横田村の親せき・佐久間家を訪ねたときをモデルにした小説。露伴はこのとき鹿野山にも登り、高倉観音のお祭りも見ている。のちに露伴が『風流仏』の続編として執筆する『風流微塵蔵』の文中に、青柳村と書かれているのは横田村のこと。小説の主人公≪遠藤雪丸≫が霊岸島から木更津に行く部分が描かれ、千葉、上総久留里、真里谷、小櫃川、太田などの地名も書かれている。大変な評判をとった。...


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