「振り返るよりも先へ」 そっと思い寄せる3月11日に 旭市防災資料館・佐久間さん 【大震災ちば15年】

来館者に旭市の津波被害を説明する佐久間さん=旭市防災資料館
来館者に旭市の津波被害を説明する佐久間さん=旭市防災資料館
いいおか潮騒ホテル1階に併設された旭市防災資料館。建物は津波避難ビルになっている=旭市萩園
いいおか潮騒ホテル1階に併設された旭市防災資料館。建物は津波避難ビルになっている=旭市萩園

 2011年3月11日に発生した東日本大震災で、旭市は津波などで千葉県内最多の14人が死亡、2人が行方不明となった。震災からあすで15年。津波被害が最も大きかった飯岡地区で暮らす佐久間弘行さん(68)は、震災後に地元に開設された旭市防災資料館の管理人となり、あの日あったことを伝えている。「ただ振り返るだけはよそうと思っている。先を見ていかないといけない」

(伊藤義治)

 海岸通りの宿泊施設1階に併設された防災資料館。「駐車場は1・6メートル浸水しましたが、ここ(資料館内)は20センチでした」。押し寄せた津波の様子を、木更津市から訪れた市民団体に説明する佐久間さん。資料館出入り口の階段を指さし「たった5段でも全然違うんです。少しでも高い所へ逃げてください」と呼びかける。「同じ千葉なのに知らないことばかり」。真剣な表情で耳を傾けていた一人がつぶやいた。

 佐久間さんは旭市などの商工会で勤務した後、23年から防災資料館の管理人となり、来館者の案内をしている。震災で自宅は被災を免れたが、母親や兄夫婦らが暮らしていた実家の1階が津波にのまれた。震災翌日、足を踏み入れた実家で目にしたのは、散乱した大量のごみや海からの砂。幼少期からの写真は全て流された。

 倒壊の危険を示す「赤紙」が実家に貼られ、1カ月後には解体された。跡地は今も更地のまま。「生まれ育った家を重機が壊していくのを見た。やっぱりつらかったな…」

 被災直後の印象深い出来事がある。震災から数日間、昼間は片付けに追われる顔見知りの人たちが、夜になると佐久間さん宅に自然と集まってきた。「こんな状況だよ」「あの人が手伝いに来てくれてさ」「あんなことがあったよね」。近況報告や世間話、何気ない会話を交わした。「みんな心細かったんだと思う」

 旭市商工会では事務局長となり、被災した中小企業の事業再建に奔走。「グループ補助金」の申請をサポートするなど地域の復興を支えた。退職後に防災資料館の管理人を引き受けたのは「自分が見聞きしたこと、飯岡の知っていることを伝えたい」との思いからだった。

 ただ、地元の人たちと震災の話をすることは、ほとんどない。「みんなこの15年の間にもいろいろあって、話せばつらいことを思い出してしまう」と被災者の心情を代弁する。

 当時の記憶は年月とともに遠ざかっていく。新たに移り住んできた人たちもいる。「震災を忘れてはいけない」と風化を危惧しつつ「けれど」と続ける。

 「わざわざ被災地だとPRする必要はない。事実を伝えるのはいいが、風化させないことと“ここが被災地です”と言うことは、私の中でリンクしない。だから3月11日をイベント化してほしくない。犠牲者がいて遺族がいる。そっと思いを寄せる日ではないか」

 15年がたつ今だからこそ強く思うことがある。「あの時はつらかったねと、ただ振り返るだけはよそうと思っている。先を見ていかないといけない。ここであったことを伝え、どう備えればいいのか教訓にしてもらうことの方が大事」。震災を伝え継ぐ意義を静かに語る。


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