急発展する柏に 八木重吉(2)

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 明治29年に敷設された日本鉄道海岸線(現在の常磐線)により、急激な発展を遂げた千代田村は、大正3年には豊四季村と合併、さらに町制を施行して柏町となる運動が進められていた。(大正15年9月15日に柏町へ。近隣の小金、流山、我孫子、野田、松戸などに伍する町となった)明治44年に開通した県営軽便鉄道野田線(柏-野田)も、大正12年に民営に移され北総鉄道となり、野田線(柏-船橋)も敷設されている。

 町制施行のシンボルとして、東葛飾郡の初の鉄筋コンクリート建造物を建てる計画が立案され、柏駅近くに中学校新校舎を建築する案が出されている。

 大正13年4月に県立東葛飾中学校が仮校舎の長全寺で開校。生徒数100名でスタートした。

 大正14年2月14日に鉄筋コンクリートの新校舎が落成。モダンな作りの四角な白亜の殿堂で、当時新聞では、「芋畑の中に豆腐一丁置いたような」と表現したという。4月から講義が行われている。

 八木重吉が赴任したのは開校2年目の新校舎に4月1日から赴任。生徒は1年生と2年生だけで、全生徒数は200人足らずだった。校舎完成に伴う職員の充実と、生徒の英語力強化のため、採用されたようだ。校長は開校当時から吉成翁助が務めていた。

 重吉が兵庫県御影から千葉県への転勤を希望した理由だか、東京府南多摩郡生まれの重吉は、故郷に近い東京方面への転勤を希望。柏が真間井、真間手児奈など万葉集のふるさと・葛飾の一隅だったことも重吉を喜ばせたようだ。

 また、東葛飾高校保存の履歴書によると、御影師範教諭時代は六給俸から五給俸、そして大正11年に四給俸と上がったものの、同13年には「当分百十五円給与」とある。東葛飾中学校では赴任当初から「百二十五円」をもらっているから、収入の増加も重要な要素だったのだろう。

 重吉が赴任したころには、柏駅の西側には松林が広がっていて茸とりの絶好の場所であり、裏には田んぼもあったという。人家もまばらだった。校舎が完成と同時に、中学校近くに教員住宅も造られ、重吉と家族はそこに住んでいる。・・・