14人死傷の悲劇伝える 市原・養老小学童殉難碑 風化に危機感、続く慰霊行事 【戦後80年ちば 記憶宿る地を訪ねて】(2)

学童殉難碑の拓本(房総の会市原支部提供)
学童殉難碑の拓本(房総の会市原支部提供)
大きなひび割れの入った「学童殉難碑」=市原市立養老小
大きなひび割れの入った「学童殉難碑」=市原市立養老小
平和の大切さを訴える大澤さん=市原市内
平和の大切さを訴える大澤さん=市原市内

 セミしぐれが降り注ぐ中、そこだけ静まりかえっている。手向けられた夏らしい、清楚な白い小さな花が悲しみを誘う。

 市原市立養老小学校(同市松崎)の校門を入るとすぐの所に立つ「学童殉難碑」。太平洋戦争末期の1945年5月8日、養老国民学校・川在分校(現同小)が米軍P51戦闘機の機銃掃射を受け、4年生児童3人が死亡、教諭と児童11人が重傷を負った。その名を刻み悲劇を伝え残す。

 血痕の赤。赤い着物。当時同分校2年生で、隣の教室にいて助かった神谷ゆきさん(87)=同市青柳=の断片的だが、鮮明な悲しい記憶。

 昼時で児童は弁当を机に広げ、お茶を持った女性担任が教室に入ってきた途端「ババーン」と経験したことのない音。パニックの児童を担任は廊下側の壁に伏せさせ、防空壕(ごう)や杉林に逃れた。空襲を知った家族が迎えに来て帰宅した。

 翌日、児童と教諭が撃たれた3、4年生の教室で惨劇を見た。壁にこびりつくピンクの肉片や血痕。皆で ・・・

【残り 722文字】



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