古里何もなくなった 平和の誓い次代に託す 16歳、空襲で同級生失う 柴田泰子さん(90)=佐倉市= 【令和へつなぐ 戦争の記憶】

  • LINEで送る

日立高等女学校時代に体験した米軍の攻撃について語る柴田さん=佐倉市
日立高等女学校時代に体験した米軍の攻撃について語る柴田さん=佐倉市

 1945年の夏。きょうだいや友達と駆け回った故郷は、米軍による相次ぐ攻撃で「焼け野原」になった。太平洋戦争では音楽好きで優しかった兄、親戚と友人を亡くし、16歳だった少女は不戦を誓った。

 茨城県日立市で生まれ育った。両親と7人のきょうだいに囲まれ、家はいつもにぎやかだった。42年、日立高等女学校に入学。前年の12月に太平洋戦争は始まっていたが、友人たちと過ごす女学校での毎日は楽しかった。

 だが、戦局の悪化とともに生活は一変する。地元には日立製作所の工場があり、女学校に通うよりも工場で勤労奉仕に汗を流す日が多くなっていった。「軍事物資を製造していることは分かったが、具体的に何をつくっているのかは教えてくれなかった」と振り返る。

 軍需工場があった日立は米軍に狙われた。終戦の1年ほど前から空襲が激しくなり、45年になると3回にわたる大規模な攻撃を受けた。6月10日の空襲では「空一面がB29(爆撃機)で覆われ」爆弾が投下された。日立は太平洋に面したまちで、7月17日には米艦隊の艦砲射撃を受け、母方の叔父が亡くなったという。

 その2日後にも空襲があった。次々と焼夷(しょうい)弾が降り注ぎ、古里には「何もなくなった」。山の上に逃げる人たちに焼夷弾が落ちる光景を思い出すと、今でも眠れなくなる夜がある。

 空襲の後、女学校の同級生がけがをしたと聞き、病院に駆け付けた。院内はけが人であふれ、何とか見つけた同級生は全身やけどで横たわっていた。元気づけようと母親に持たされたジャガイモを食べさせた後、彼女は静かに息を引き取った。「日本人形のようなきれいな子が、ひどい姿になっていた。まだ16歳だったのに」。日本の勝利を信じていた軍国少女はこの時、「戦争は絶対にやってはいけない」と思った。

 8月15日、戦争は終わった。手をたたいて喜びたかったが、両親の姿を見て何も言えなかった。父親は黙って玉音放送を聞き、夜間に空襲の標的となるのを防ぐために電灯を覆っていた布を黙々と取り外す母親。二つ上の兄は3カ月前、特攻隊員として沖縄に向かう途中、撃墜され命を落とした。両親は19歳だった次男のことを思っていたのか…。

 あの夏から74年の月日が流れた。7月には卒寿を迎え、猛暑が体にこたえる。でも、少し涼しくなったら今年も日立に足を運び、兄たちが眠る墓前で手を合わせようと思っている。

 同郷の夫は昨年亡くなり今は1人暮らしで、ひ孫たちの顔を見るのを楽しみにしている。「日本では75年近く戦争がなかった。平和へと導いた先人たちの思いを引き継いでほしい」。新時代を担う若い世代に願いを込める。

(報道部・小野 洋)

=終わり