往時の面影残す風景 万葉の参道と手児奈伝説 【千葉地理学会連載 おもしろ半島ちばの地理再発見】

継橋
継橋
手児奈霊神堂
手児奈霊神堂

 JR市川駅の北口ロータリー先の国道14号線交差点を左折してすぐ、右手に車1台が通れるくらいの路地があります。入口には「日蓮宗真間弘法寺」という石標が立ち、足元には「大門通り」という名称が記されています。

 遠くに見える「真間山」という小高い山に向けて真っ直ぐに延びているこの道は、弘法寺(ぐほうじ)の参道で、「万葉の道」ともいわれています。

 通りを進むと、住宅やアパート、マンションが建ち並ぶ中に、小さな各種の店が点在しています。所々の住宅の塀に、万葉集から抜粋した歌の筆字パネルが設置されています。額田王、柿本人麻呂、山上憶良など、万葉の有名な歌人ばかりでなく「読み人知らず」の歌もあります。これらのパネルの筆字は地元の書家の人たちが書いたものだそうです。

 途中、京成本線の線路や真間(まま)川に架かる入江橋を渡ります。その先に「つぎはし」という小さな赤い橋があります。しかし橋の下には水は流れていません。この橋は、歴史を現在に伝えるモニュメントなのです。

 かつてこの地域は入り江と砂州が入り組んで広がっていました。下総国府も近隣にあり、船が停泊する場所でもありました。砂州と砂州を渡るように橋が掛けられ、「真間の継橋」と呼ばれました。この橋は万葉集にも詠まれています。

 江戸時代の絵師である歌川広重の「名所江戸百景」に「真間の紅葉手古那の社つぎ橋」があります。真間山の紅葉の向こうに見える水域や水田が広がる風景の中に、小さな社(やしろ)や橋が描かれています。

 広重の絵の題にある「手古那(てこな)」とは女性の名です。奈良時代より前のこと、手児奈(手古奈・手児名)という美しい女性がいて、数多くの男性から求婚されましたが、手児奈は思い悩んだ末、海に身を投げて自殺してしまいました。手児奈の話は都まで伝わり、万葉集にも手児奈を題材にした歌が山辺赤人や高橋虫麻呂などにより何首も詠まれています。

 継橋のすぐ先から右手に入ると手児奈霊神堂があります。1501年に手児奈の奥津城(おくつき=墓)があったと伝えられる所に建てられた手児奈を祭る堂です。先述した広重の絵の「小さな社」がそれです。良縁・子授け・安産・健児育成の御利益があるとされます。

 大門通りの突き当たりから石段を上がると弘法寺です。その由来は奈良時代、737年に行基が当地を訪れた時に手児奈の話を聞き、求法寺という寺を建てて弔ったことに始まるとされます。その後、永安時代初期の822年に空海が当地を訪れた時に弘法寺と改称されました。鎌倉時代の1275年に日蓮宗の寺院となり、法華経道場として発展しました。手児奈霊神堂も弘法寺の内の一つです。

 千数百年前の手児奈伝説が現代まで続いているこの地域。弘法寺の石段の上から眺めると、ふと往時の風景が思い浮かぶ感じがします。

 (横芝小学校長 佐瀬一生)


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