合戦舞台「境目の要」 国府台城(市川市) 【一度は訪れたい 郷土の古城】(1)

かつて合戦が繰り広げられた国府台城。いまは市民の憩いの場となっている=市川市
かつて合戦が繰り広げられた国府台城。いまは市民の憩いの場となっている=市川市
国府台合戦にまつわる「夜泣き石」(右手前)と「里見広次並びに里見軍将士亡霊の碑」
国府台合戦にまつわる「夜泣き石」(右手前)と「里見広次並びに里見軍将士亡霊の碑」

 市川市国府台は戦国時代、大きな合戦の舞台になった。その要地の高台に城跡が残っている。遊園地、軍用地、公園へと時代につれて変遷したため、戦国時代の遺構は多くないが、兵(つわもの)たちが攻防を繰り広げた往時の面影をしのぶことができる。

 室町幕府の関東支配が揺らいでいた15世紀半ば。関東を統制する役職「鎌倉公方(くぼう)」と、その補佐役「関東管領(かんれい)」の争いが関東全域に広がった。渦中の1479(文明11)年、地域支配の要地であった国府台に関東管領の家臣、太田道灌が城を築いたとされる。

 城域は現在の国府台3から里見公園、総寧寺に及ぶ。江戸川に平行して延びる丘陵上に位置し、急な崖を背にコの字型に土塁を築き敵の侵入を防ぐ自然を利用した出城だった。この地域は武蔵と下総の国境付近。市立市川歴史博物館学芸員の山岸未来さんは「武蔵国からの侵攻、松戸・船橋方面の交通を監視する『境目の城』だった」と説明する。

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