勤労動員、過酷な日々 女学生ら不安抱えて作業 富津 第二海軍航空廠・佐貫地下工場 【戦後80年ちば 記憶宿る地を訪ねて】

「平和を語り継ぐ会」の(左から)川名好枝会長、長浜聡子さん、大野三恵子さん=木更津市
「平和を語り継ぐ会」の(左から)川名好枝会長、長浜聡子さん、大野三恵子さん=木更津市
コンクリートで固められた佐貫地下工場のトンネル跡=富津市
コンクリートで固められた佐貫地下工場のトンネル跡=富津市
木更津高等女学校の生徒が描いた「回顧昭和廿(にじゅう)年」より、佐貫地下工場での作業の様子(木更津市郷土博物館金のすず蔵)
木更津高等女学校の生徒が描いた「回顧昭和廿(にじゅう)年」より、佐貫地下工場での作業の様子(木更津市郷土博物館金のすず蔵)

 大戦末期、木更津市のほか周辺地域に軍需工場が拡散し、君津と富津の市境には「第二海軍航空廠・佐貫地下工場」が造られた。その痕跡や語り継がれる体験は、勤労動員された女学生らが明け暮れた過酷な日々へと想像をかき立てる。

 当時、木更津市には海軍の木更津航空隊基地(現在の陸上自衛隊木更津駐屯地)があり、軍用機の修理・補給をする第二海軍航空廠を併設していた。戦況悪化に伴う疎開工場の一つが、山中に総延長約9キロにも及ぶトンネルを縦横に掘った佐貫地下工場だった。

 工員が次々と徴兵される中、木更津高等女学校(現在の県立木更津東高校)などから多くの学徒が動員されて代わ ・・・

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