
東京湾の水土について研究している「東京湾学会」は戦後80年を記念して7月、同会副会長でジャーナリストの小池新氏が「ドキュメント千葉県の空襲」と題した報告を千葉市内で行った。その内容を小池氏が改めてまとめ、3回にわたって紹介する。
× × ×
「六日二十三時三十分より七日三時三十分に亙(わた)りB29二百機は四梯(てい)団に分かれ、甲府、千葉両市ほか関東各地の中小都市を焼夷弾攻撃せり」。1945(昭和20)年7月7日午前10時、東部軍管区司令部はこう発表した。千葉市への「七夕空襲」の勃発だった。
「千葉市は房総半島の軍事的中心で艦船工場や日立航空機の工場もあり、鉄道の要衝でもある」。米軍の「作戦任務報告書」はこう判断して、5月8日と6月10日にも蘇我地区にあった日立航空機工場を標的に空襲。かなりの被害を出していた。
「七夕空襲」で来襲したのは防空総本部情報では50機だったが、「作戦任務報告書」によれば120機余り。目標は今度は市街地だった。「まず最初に市周辺部の椿森、作草部、穴川、小仲台などの軍事施設と民家に油脂焼夷弾を雨あられのように落とした」(「千葉市史」)。この地域には鉄道連隊や気球隊、歩兵学校などが集中していた。続いて市中心部に集中攻撃をかけたため、市民の逃げ場をふさぐ形になった。「四方八方から上がった火の手と空からの焼夷弾攻撃にあって、市民は少ない避難場所を求めて右往左往するばかりで大混乱となった」と「千葉市史」。同書は被害を死傷者1595人、被災戸数8904戸、被災者4万1212人としている。「千葉市空襲はまさに東京大空襲の地方版であった」(「絵にみる図でよむ千葉市図誌上巻」)
筆者は戦後生まれだが、実家は椿森。父は出征中で、母が幼い姉と兄を連れ、田んぼを逃げ回ったと聞かされた。家の裏側の柱には焼け焦げが残っていた。
銚子市はこの年、東京大空襲と同じ3月9~10日に死者47人を出す被害を受けていた ・・・
【残り 463文字】




