選手と監督で全国制覇 第49回(67年)優勝投手、57回(75年)優勝監督 習志野・石井好博 【千葉高校野球ドキュメント100】(1)

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習志野の甲子園県勢初優勝を報じる1967年8月21日の千葉日報本紙
習志野の甲子園県勢初優勝を報じる1967年8月21日の千葉日報本紙
甲子園で胴上げされる石井監督を報じる1975年8月25日の千葉日報本紙
甲子園で胴上げされる石井監督を報じる1975年8月25日の千葉日報本紙
当時の思い出を笑顔で振り返る石井好博=14日、千葉県内
当時の思い出を笑顔で振り返る石井好博=14日、千葉県内

 今夏、高校野球選手権は100回の記念大会を迎える。幾多のドラマを生み出してきた球児たちの熱戦は、日本の文化としてこれからも続いていく。連載「千葉高校野球ドキュメント100」では、全国屈指の激戦区・千葉大会に出場、または見つめてきた人々を訪ね、重ねてきた歴史を振り返る。第1回は、49回大会(1967年)でエースとして千葉県に初の「深紅の大優勝旗」をもたらし、57回大会(75年)には監督として全国制覇を果たした習志野の石井好博。(敬称略)

 私が2年の夏に負けた後、関西遠征に行って初めて甲子園を見に行った。あの時の感激ってすごかったね。テレビで見るのとは全然違うわけですよ。こういう所で野球をやりたいって思いになった。

 最後の夏は甲子園でも優勝できると思っていなかった。当時予選で茨城と東関東大会があり、うちはなかなか勝てなくて。けど、千葉で開催できることになり、夢見ていた甲子園に行きたいと、木内(幸男監督)さんの取手二と、竜ケ崎一を連続で完封できた。プロに行くような力もなかったから、1球でアウトを一つ取れる投球を心掛けていた。

◆苦しんだ中京戦

 甲子園では開会式後の堀越(東京)との開幕戦に勝って、気持ちが乗っていった。準決勝は中京(愛知)。実は前の年に甲子園で見た試合が中京と桐生(群馬)の準々決勝だった。中京は洗練されているし、一番の印象は相手につけ込む走塁。こういうチームにならないと甲子園に行けないという目安になった。

 池田(和雄)がホームランを打って先制したが、ピンチの連続。九回に2死から反撃され3-2になって血の気が引いた。市原(弘道監督)先生も越川(道弘部長)先生も腰がすくんだって。けど、逃げちゃ駄目だと。技量に差はあるが同じ18歳の高校生。先生に気持ちだけは負けるなと言われていた。サードゴロで終わり、逃げなきゃ良いゲームができるんだと感じた。

 準決勝で苦しんだ分、決勝は気持ちが楽だった。最後はストレートで空振り三振。開幕戦最初の1球と最後の1球を私が投げることができた。優勝の喜びもあったが、脇見もせずにやってきた高校野球が終わってしまうのだなって感じた。この瞬間に、もう一回高校野球に携われれば良いなと思った。

◆監督は難しい

 早稲田大学3、4年の時に実は就職先が決まっていた。けど、越川先生に習志野に来てくれと言われちゃって。卒論を提出しないで大学5年目を迎えることにし、企業に謝りに行った。5年目の大学に通いながら習志野のベンチに入り、夏の甲子園(54回大会・72年)に行けた。掛布(雅之・元阪神)が2年生の時だった。

 ボールを自分たちでいじれる選手の方が簡単で、監督は難しい。必死だった時に小川(淳司・ヤクルト監督)が入学した。1年の6月にピッチャーをやらせたが、球は速いがノーコンで仕方ない。けど、フォアボール10個与えても良いから投げさせた。

 そしたら右腕を疲労骨折してしまった。普通なら練習を休むが、あいつは腕をつるした状態でも、毎日ランニングやタイヤ引きをやっていた。努力と気持ちの強さがすごく、何とかしてやりたいと思った。あれは小川の原点で、今でも覚えているはず。

◆“邪犠飛”で反撃

 74年夏は銚子商業に負けたが、銚子商は甲子園で優勝。自分たちのやってきたことは間違いじゃなかった。だけど75年のセンバツは豊見城(沖縄)にやられ、やっぱり打てなきゃ勝てないと。とにかく走って、バットを振った。発電機を買ってティーバッティングとベースランニングと素振り。毎日午前0時すぎまで練習した。

 夏の県準決勝は銚子商業と。篠塚(和典)がジャイアンツに入って会った時に「野球人生で一番悔しかったのが、あの時勝負してくれなかったこと」と言われたよ。歩かせ続け、最後の打席は小川が一騎打ちして三振取ったんだけどね。

 甲子園は、春惨めな負け方をしたから汚名だけはそそぎたかった。準決勝の広島商業は雨で1時間半ぐらい中断。ベンチの中で小川を呼び、今までの練習の思い出とかを話し気持ちをつないだ。頑張って3試合連続で完封してくれた。練習してきたけん制で刺せたのも大きかったかな。

 決勝は新居浜商業(愛媛)。小川も下山田(清)も肩が痛いって言い出して。小川にはここで投げないこともできるが、高校野球は一生悔やむからって伝えた。雨で順延になり硬さがあり、今までなかったエラーでの失点。きょうは駄目かと何度も思った。五回に一塁方向のファウルフライでタッチアップし、小林(重信)が生還。あれで相手が崩れるのがよく分かり、逆転できた。野球のあらゆるケースを想定し、練習していた成果が出た。

 監督は周りが考えている以上にいろんなことを考えてしまう。点差とかイニングを考え何球目にサインを出すか、とかね。監督は次の年も、また次の年のことも考えなきゃいけない。だから監督として優勝できた方がうれしかったかな。

 「水鳥のごとく、稲穂のように」。見えないところでもがき、うまくなってくれば頭を下げ低い姿勢を、が信条だった。どちらの優勝も自分の力でできたわけではない。日本一になったのは私ではなく、チームがなった。その中の一員だったと常に思っている。

◆情熱ずっと続いて

 私はいろんな恩師の教えをミックスして野球をつくったので、これがオレの野球だなんて偉そうなこと言えることは一つも無い。けどね、練習しなきゃ勝てないってことは一番感じたかな。

 あと野球ってのは筋書きのないドラマではない。監督がドラマの筋書きをつくってやるんだよ。それぞれ異なる選手の性格を考えて、その子にあった指導を考えてあげるとかね。正直者がバカを見るっていう世界にはしたくないじゃないですか。真面目に練習してきた連中が最後に笑えるチームにするには、監督も努力しないといけない。

 昭和40年に高校野球の世界に入って、半世紀が過ぎ100回大会ですか。現役も監督時代のこともすべて忘れられないし、今でも新鮮によみがえるんですよ。環境や野球の考え方も変わっていくけど、大人も子供も、高校野球に対する情熱はずっと続いてほしいね。

 ◆いしい・よしひろ 1949年、4月3日生まれ。68歳。千倉町(現南房総市)出身。「最後の大会で銚子三中学に敗れリベンジしたくて」習志野高へ進む。67年第49回大会でエースとして県勢初の全国優勝に貢献。75年第57回大会は監督として母校を率い、県勢3度目の全国制覇に導いた。当時26歳だった。

 【次回は26日、習志野・小林徹を掲載します】

◆プレーバック
第49回全国高校野球選手権

 ▽決勝(1967年8月20日・甲子園)
習志野
200001202―7
000000100―1
広 陵(広島)
(習)石井―醍醐
(広)宇根―生田
▽本塁打 池田(習)
▽三塁打 醍醐(習)橘(広)
▽二塁打 松戸、藤代2(以上習)真木(広)

準決勝  3―2 中京(愛知)
準々決勝 16―2 富山商
2回戦  6―3 仙台商(宮城)
1回戦  3―1 堀越(東京)

第57回全国高校野球選手権
 ▽決勝(1975年8月24日・甲子園)
新居浜商(愛媛)
010200100―4
000040001x―5
習志野
(新)村上―続木
(習)小川―神子
▽三塁打 福田(習)
▽二塁打 福田、岩崎(以上習)

準決勝  4―0 広島商
準々決勝 16―0 磐城(福島)
3回戦  2―0 足利学園(栃木)
2回戦  8―5 旭川龍谷(北海道)