「トーチカ」が遠近に 地名から見る四街道 【千葉地理学会連載 おもしろ半島 ちばの地理再発見】

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市役所近くにある砲兵学校の碑
市役所近くにある砲兵学校の碑
市内循環バスの停留所名
市内循環バスの停留所名

 東関東自動車道千葉北インターチェンジ近く、国道16号線の千葉北警察署の交差点から東に少し走ると「遠近五差路」という信号に出ます。ちょうど千葉市から四街道市に入る地点ですが、さて何と読むのでしょう。

 正解は「とおちか」と読みます。「とおちか」とはトーチカのことで、ロシア語でコンクリート製の防御陣地のことです。なぜ、ここにそのような地名が残っているのか。軍隊の町として発展してきた四街道の歴史と深く関わっているからです。

 幕末の佐倉藩では洋式軍隊を取り入れ、砲術訓練所を設けました。そしてその試射を、領地であった下志津原で行いました。明治維新後、政府はこの付近を陸軍演習場にし、1897(明治30)年、現在の四街道市役所付近に陸軍野戦砲兵射撃学校が移転してきました。

 この訓練での着弾状況の観測や兵士の戦場体験のために設けられた施設を地元住民が「トーチカ」と呼び、現在も地名として残っているのです。着弾場だったこの付近には、他に地名となるべき施設は何もなかったのでしょう。

 砲兵学校が来る3年前には総武鉄道が開通し、四街道駅が置かれました。そもそも「四街道」とは、現在の四街道十字路の地点から、船橋・東金・千葉・成田への四方向に街道が延びていることが由来であるといわれています。この交差点に、1881(明治14)年に建てられた古い道標と「四街道地名発祥の地」の説明板があります。

 それまでは原野であった四街道にも駅ができ、砲兵学校に続いて砲兵連隊も置かれると、町には商店や飲食店が増え、昭和初期には人口も3千人ほどになりました。しかし行政的には、千代田村の区域であり、四街道が町名になるのは千代田町と旭村が合併した1955(昭和30)年です。

 戦後、軍郷四街道も新しい道を歩き始めます。砲兵学校跡には戦禍にあった千葉の女子師範学校が移転しました。同校はその後、千葉大学教育学部2年課程となり、61(昭和36)年まで続きます。四街道駅近くには、元軍用地だった場所に多くの学校があります。

 また、下志津原の元軍用地には復員した人々などが入植し、農地開拓を進めました。その中の鹿放ケ丘という地域は、戦時中、茨城県にあった満蒙開拓青少年義勇訓練所から援農・入植した百数十名の人々が中心になって開拓されました。

 鹿放ケ丘ふれあいセンターに歴史民俗資料室があり、開拓や生活の資料が展示され、当時の様子をしのぶことができます。中でも開拓地から掘り起こされ集められた多くの弾丸や薬莢(やっきょう)はこの地域の歴史と開拓の苦労を物語っているようです。

 鹿放は「ろっぽう」と読みますが、これはこの地が六方原であったことからきています。江戸時代に鹿を捕らえていたこの地で、今度は鹿たちを放ってあげたいという願いが込められているそうです。なお、境界を接する千葉市側は稲毛区六方町です。

 このように地名はその土地の歴史を物語っていることが多いのです。

 (埼玉大・敬愛大非常勤講師鎌田正男)