伊能忠敬と出会う 井上ひさし(12)

 『四千万歩の男・忠敬の生き方』(二〇〇三年・講談社)に、ひさしが佐原市伊能忠敬記念館を訪れ、閉館まで《忠敬先生画象》を眺めていたことが載っている。

 それが何時の頃なのかはっきりしないが、忠敬を描く「四千万歩の男」の連載が昭和五十一年十二月から始まっていること、さらに『同・忠敬の生き方』の第一章「一身にして二生を経る」に、シドニー行き飛行機(ひさしは、昭和五十一年三月国立オーストラリア大学の客員教授として、シドニーに飛んでいる)に乗っていて、十時間で八千キロを旅したとき、ふと「忠敬という人は、おまえが飛行機を使って飛んできた距離の四、五倍もの旅を二本の足でやってのけたのだよ」という自分の胸の声を聞く話が載っていることから、訪れたのは、その前の昭和五十年頃だろうか。その後、何回も同記念館を訪れたそうである。

 昭和五十年はひさしが市川北国分に新居を構えた時期だから、新居を北国分に構えると同時に、やおら千葉県の歴史に興味を持ち、忠敬研究となったのかもしれない。

 その後「四千万歩の男」は書きつがれ、昭和六十一年に『四千万歩の男《蝦夷篇》』上下巻(講談社)、昭和六十四年には『四千万歩の男《伊豆篇》』(講談社)、そして平成二年には『四千万歩の男』全五巻を講談社から刊行している。並大抵の興味ではないことがわかるだろう。

 「一身にして二生を経る」の冒頭に、「生れつき地図が好きである」ことが書かれ、忠敬に出くわす因縁を述べている。

 五万分の一地図もいちはやく集めたし、この何十年間に買いためた大小の地図帳は書棚を二架も占領している。小説や戯曲を書く前に、その作品の舞台となる場所の地図をつくるのも、いまでは欠かせない執筆前の儀式になってしまっている。こういう人間だから遅かれ早かれ伊能忠敬という存在に出っくわすのは判りきっていた。なにしろ忠敬こそは、日本ではじめて、実測による日本地図を完成した人なのだから。(「一身にして二生を経る」)...


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