命ある限り語り継ぐ 焼夷弾命中、右脚失う 日佐戸輝さん(100)=野田市 【戦後78年千葉 記憶をつなぐ】

仙台空襲で右脚を負傷した体験を語る日佐戸さん=野田市
仙台空襲で右脚を負傷した体験を語る日佐戸さん=野田市
応集前日の日佐戸さん(本人提供)
応集前日の日佐戸さん(本人提供)

 終戦から10日後の1945年8月25日。復員して、地元の野田町駅(現東武鉄道野田市駅)に降り立つと、涙があふれ出た。生還できた喜び。ただ、涙の理由はそれだけではなかった。出征時は大勢の人が万歳をしながら盛大に見送ってくれた。右脚を失い九死に一生を得て、帰還した自分を出迎える人はいない。戦争のむなしさや不条理さを思い知らされた涙でもあった。

 キッコーマンでしょう油の品質管理をしていた3カ月前に召集された。3月の東京大空襲で姉一家4人を失っており「自分も戦争で死ぬのか。せめて両親に親孝行ぐらいしたかった」。本当は戦争に行きたくない。だが、口に出せる時代ではなかった。

 柏市の陸軍高射砲第115連隊第18中隊に配属された。高射砲で米軍 ・・・

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