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ふすま剥がしたら…「徳川家康」関連の古文書 台風で被災した酒々井・清光寺への調査で発見 専門家「史料的価値高い」

徳川家康が認めたとされる書状の写し。「天正元年 家康御書判」や「永代大樹寺」などと記されている=1日、酒々井町の清光寺
徳川家康が認めたとされる書状の写し。「天正元年 家康御書判」や「永代大樹寺」などと記されている=1日、酒々井町の清光寺
徳川家とゆかりのある寺院として知られる清光寺。昨年秋の台風被害の爪痕が今なお生々しく残る=2日、酒々井町
徳川家とゆかりのある寺院として知られる清光寺。昨年秋の台風被害の爪痕が今なお生々しく残る=2日、酒々井町
大正8年の大改修の際に作られたとされるふすま。内側から下張りされた和本などのほかに、清光寺と徳川家の関係性を示す史料なども発見された
大正8年の大改修の際に作られたとされるふすま。内側から下張りされた和本などのほかに、清光寺と徳川家の関係性を示す史料なども発見された

 徳川家とゆかりのある酒々井町上本佐倉の浄土宗の寺院「清光寺」(福田大和住職)で、江戸幕府との関係性などを示す書状の写しなど多数の古文書が見つかっていたことが2日、町などへの取材で分かった。昨秋の台風で甚大な被害を受け、建て替え方針が打ち出されている同寺への歴史調査で明らかになった。桶狭間の戦い後、故郷に戻り独立した家康の書状の写しなどもあり、専門家は「中世の史料は相対的に少なく、史料的価値は高い。徳川家、江戸幕府と清光寺の関係解明のきっかけにもなる」と期待している。

 町などによると、清光寺は室町時代末期の1556年に月峯上人によって開山された古刹(こさつ)。将軍家所縁の寺院として、「葵の紋」を許可されている。91年に徳川家康から御朱印地五十石を拝領され、家康や2代将軍の秀忠が東金へ鷹(たか)狩りに行った際に度々訪れた。

 現存する本堂は江戸前期1681~83年に建立されたもので、境内には秀忠が植えたとされるイチョウの木があるほか、かの水戸光圀も参拝したとする資料も残る。家康の父松平広忠の分骨を供養していることでも知られる。

 調査は、1919(大正8)年に大改修された本堂などで実施。町と淑徳大(千葉市)のチームが今年2月に予備調査を行い、8月26日には、ふすまの下張り文書の剥がし作業を行った際に史料の数々が見つかった。

 町などによると、ふすまはかつて強度や防寒効果などのため、内側に使用済みの和紙など再利用して張っていた。幕府崩壊で徳川家との書状などの写しが不要となり、和本などと一緒に反故(ほご)紙としてふすまなどに使われたとみられる。

 古文書には、桶狭間の戦い後、家康が松平家と徳川将軍家の菩提寺とされる大樹寺(愛知県岡崎市)への寄進を証明した書状の写しや、秀忠が清光寺に領地を与えたことを示す朱印状の写しなどがあり、町の担当者は「徳川家との関わりを示す重要な史料。100年以上、ふすまの中に封じ込めてあった。まさにタイムカプセル」と驚きを隠せない。

 調査チームに参加する淑徳大の田中洋平准教授(日本宗教史)によると、史料は戦国中期~末期、江戸初期の文書を江戸時代に書き写されたものと推測。「同じ浄土宗とはいえ、大樹寺の史料が清光寺にあった。二つの寺の関係性を解明するきっかけになる」と史料的価値を高く評価する。

 同寺第30代目の福田住職(41)は「町や寺の歴史として、ぜひ調べていただければ」と話した。


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