箱根に散った房総武士 戊辰戦争請西藩の戦い(2) 【千葉地理学会連載 おもしろ半島ちばの地理再発見】

  • LINEで送る

早雲寺の遊撃隊士の碑
早雲寺の遊撃隊士の碑
箱根宿に残る遊撃隊戦死者の碑
箱根宿に残る遊撃隊戦死者の碑

 今回も、木更津請西藩主林忠崇(ただたか)が戊辰戦争で官軍と戦った足跡をたどります。

 慶応4年閏4月3日に遊撃隊と共に真武根陣屋を出陣し、館山まで進んだ経緯は本欄(10月3日付)に掲載しました。

 さて閏4月9日夕刻、忠崇らは館山から船で真鶴に向かいます。この日の前日忠崇は残した家来に命じて陣屋を焼き払わせています。出陣の決意を示したのでしょう。館山藩が用意してくれた船を幕府海軍の大江丸が密かに引いてくれたこともあり、東京湾は荒天でしたが、10日朝には真鶴に上陸することができました。

 軍は予定通り小田原城に入り協力を求めますが、藩主大久保忠礼は面会せず、資金や食料の提供を申し出ただけで、その対応は内房諸藩と同じでした。

 忠崇らは小田原藩説得を諦め、次に韮山代官所を目指します。韮山代官所は伊豆、相模、武蔵などの幕府領26万石を所管しているのですが、ここでも好ましい対応は得られませんでした。

 次に同盟を期待できるのは沼津藩で、藩主水野忠敬は甲府城代を務めていたので甲府へ向かいます。しかし、幕臣山岡鉄舟が兵を引くように使いをよこし、沼津藩主の意向もあって沼津に戻り、狩野川河畔の霊仙寺に滞陣しました。この時の忠崇軍は250名程だったので軍を五軍に編成し、請西藩士は遊撃隊の第四軍という位置付けになりました。

 そして沼津退陣中に、江戸上野で彰義隊が決起したことが伝わり、それと呼応しようと軍を動かすことになります。そして箱根戊辰戦争が始まるのです。

 5月19日遊撃隊が箱根関所を攻め、激しい戦いが続いていると、翌日なんと小田原藩が同盟を求めてきたので、関所を占拠することができました。

 しかし、23日小田原藩が再び新政府への恭順に転じ、26日に箱根湯本の早川沿いの山崎の地で大きな戦いとなります。小田原軍と官軍の連合軍は遊撃隊の何倍もの軍勢でしたので、遊撃隊側は敗北してしまいます。

 そして翌日朝には熱海方面へ撤退することになるのですが、この戦いや撤退の中で多くの請西藩士が命を落としました。湯本の早雲寺には遊撃隊士の碑があります。また芦ノ湖畔の芦川にも請西藩士の墓があり、明治元年5月27日、林昌之介臣として7名の名が刻まれています。大観光地の箱根に戊辰戦争で散った房総の武士が眠っているのです。

 生き残った者たちは再び船で館山に戻ります。館山出港から一月半、多くの戦死者を出した忠崇の軍ですが、この後もさらに奥羽越列藩同盟に加わるべく、東北を目指すことになるのです。

 ※前回、請西藩の兔(うさぎ)狩りの地を袖ケ浦市下根岸としましたが正しくは木更津市上根岸ですので訂正します。上根岸の八坂神社には「献兔賜杯」の碑があります。

(敬愛大・秀明大非常勤講師 鎌田正男)