サハリンで初コンサートを開いた加藤登紀子さん(鴨川在住) 歌手として「日ロの橋渡しに」 父の思い、25年越しの宿題 【この人に逢いたい ちばの才人たち】

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 ロシア・サハリンで初のコンサート(6月)を開いた鴨川市在住の歌手、加藤登紀子さん(74)が千葉日報社のインタビューに応じ、今は亡き父から引き継いだ思いなどを切々と語った。第2次世界大戦、凍(い)てつく大地、抑留…、両国の関係に思いを致す時、戦争の暗い影がどうしてもちらつく。加藤さんは歌手として「日ロの橋渡しに」と初コンサートの意義を話す。現地では代表曲『百万本のバラ』にちなんだ植樹活動もし、近い将来必ずやかれんに咲く花で両国の絆を結んだ。(館山鴨川支局・吉田哲)

 -なぜ、サハリンでコンサート。

 「父が学生時代にロシア語を学んで、文化や食、音楽を日本に伝えることをライフワークにしていた。私に『ぜひサハリンで歌うべきだ』と勧めており、1992年にサハリンでのコンサートを準備していた。しかし、直前に父が他界してしまい、できずじまい。旅行するたびに劇場を視察して、どのような形でなら公演できるか模索し、やっとNPO法人日本サハリン協会と日本におけるロシア年、交流年ということで実現した。25年以上の宿題を果たせた」

 -サハリンで公演することの意義は。

 「私は満州で生まれ、(第2次大戦の)戦中戦後の混乱を家族と経験した。それ以上の過酷な条件で、サハリンに残った人がたくさんいた。とても似た経験をしたということと、『百万本のバラ』はロシアの歌を日本語にして、日本で大ヒットした。ロシアと日本の橋渡しとしては、大きな意味を持っている」

 -現地の活動と反応は。

 「サハリンに住む残留邦人の方たちをコンサートに招き、サハリンの大学生合唱団が参加してくれた。100万本のバラの庭園を造ろうと、日本総領事館などが入るサハリン北海道センターの庭園に植樹した」

 「故郷に帰れなかった寂しさとか、言語の違いとか、食生活の違いとか、いろんなことを乗り越えた、りりしいおばあちゃんたちと会ってきた。80歳になっても日本語を話して、日本の歌を歌っていた。歌手としてサハリンを見守り続けなければならないとあらためて思った」

 -鴨川市にはいつから住み、どのような暮らしを。

 「学生運動のリーダーだった夫(藤本敏夫さん)は、日本が農業を大事にしない国になっているのを気にし、農業をやる側になろうと、鴨川で農地を探した。1981年に無農薬、無化学肥料で米や野菜を栽培する『鴨川自然王国』を建国した。2002年に夫が他界し、引き継いでいる。東京の家に住みながら、月に1度1泊や日帰りしたり、正月や夏休みに長期でいたり。畑で採れた野菜で料理を作って孫に食べさせたり、移住してきた仲間と楽しんでいる」

 -鴨川市はロシア人の本土初上陸地であるが。

 「千葉日ロ協会は精力的に活動している。今回のコンサートでも、会員で琴教室を主宰する赤木静香さんが来てくれて、在留邦人との交流会で琴の演奏をした。私がワークショップをしたサハリン大学へ琴を贈呈し、『9月に教えに行く』と言っている」

 -今後の活動は。

 「コンサートで一緒に演奏したウラジオストク・ロシアン・トリオを呼んで札幌市で10月8日にコンサートを開く。日本におけるロシア年、ロシアにおける日本年として、橋渡しをしたい。千葉県内や鴨川でもコンサートを開きたい。ディナーショーでもいい。日本とロシアの関係がどんな状況になっても人と人の交流ができることを願っている」

◇ロシア人国内初上陸の地、鴨川 

 鎖国をしていた江戸時代の1739(元文4)年に、日本探検を目的としていたロシアのオホーツク探検隊の船団1隻ガヴリエル号が天津村(現在の鴨川市天津)に上陸した。乗組員数人は水や食料を求め、地元漁民は物資を供給した。この上陸は北海道を除く国内初めてのロシア人の上陸とされている。


鴨川市