東葛飾中学最後の授業 八木重吉(14)

 大正15年3月、重吉は東京九段上の南湖院の、キリスト教徒で結核の権威・高田畊安(こうあん)博士の診察を受ける。判定は結核第二期半ば。28歳になったばかりだった。

 夫人の回想(吉野登美子『琴はしずかに』)によると、同年の正月前の重吉は「どうしたら神のよき徒(しもべ)となれるか」と自問を重ね、魚や肉類を「可哀そうで食べられない」と食べなくなったという。風邪と称して病臥する日々がめっきり増えていった。ブレイクの詩を愛読。

 佐藤惣之助は「八木君の死」(『草』昭和3年1月)で、重吉は「どうも私は気が弱いので、時々死むでしまをうと思ひます。死むでもよいやうな気がするのです」と言ったことを記している。大正14年後半重吉は気弱くなっていた。

 同15年の1学期を最後に八木は東葛飾中学校を去っている。教え子の証言によると、次のような様子だったという。「…その日の八木氏は、最初から、どこかふだんと違っていた。挨拶が済むなり、八木氏はいきなり詩の講義をはじめた。八木氏は1冊の詩の本を開け、静かなうちに熱をこめて語る、やがて、語り終え、その本を閉じた。そして一言、何かを暗示するように『キリストの再来を信ず』と言った。半ば呆然たる面持ちの生徒の眼に見送られて、八木氏は間もなく教室から消えていった」(東葛飾高校『四十年の歩み』昭和40年、鷲見正夫さんの証言)

 この日が学校を去る最後の日で、再び生徒達の前に現れることはなかった。

 重吉が神奈川県茅ケ崎の南湖院に入院するのは同15年5月。7月にとみ子夫人は2児をつれ柏から茅ケ崎の借家に移り自宅療養を始めている。10月には発熱、耳下腺炎、腹痛などに悩み絶対安静の闘病生活に入る。...


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