シベリア抑留、収容所の村が記録 顔にぼろきれ巻き極寒耐え

日本兵のシベリア抑留を知る住民に、聞き取りを行った歴史家のガリーナ・ワシリワさん=8月、ロシア極東アムール州のラズドリノエ村

 旧ソ連による日本兵のシベリア抑留を巡り、強制労働収容所があったロシア極東アムール州のラズドリノエ村で、当時を知る住民の男女7人から聞き取りを行い、証言を記録していたことが20日、村関係者への取材で分かった。「ぼろきれを顔と頭に巻いた」「畑から凍ったキャベツを持ってきた」とし、極寒や飢えに苦しんだ抑留生活を、住民の目を通し伝える貴重な資料となっている。

 聞き取りは、岐阜県揖斐川町の僧侶横山周導さん(94)の墓参団が訪れるようになった1998年以降、村の博物館のサークル活動として実施。歴史家ガリーナ・ワシリワさんを中心に、2005年までに「戦争中のわが村域における日本人」として資料にまとめ、学校の教材にもした。

 証言などによると、村の中心部や周辺の収容所に45年から2年間、計約500人が抑留された。このうち農作業を課された抑留者は野菜保管庫だった平屋のバラック小屋で「半地下住居に暮らした」「湿気が多く、寒かった」。周囲には鉄条網が張り巡らされ、監視がいた。屋内は多くの部屋に仕切られ、床にわらを敷いて寝床に。自分たちで造った浴槽もあった。

 酪農作業の抑留者は放牧や餌やり、清掃、干し草集めなど「朝6時に始まり、12時から1時間の昼食を挟んで、日没まで働きづめだった」。窓が一つの納屋で暮らし、休み時間によくロシア歌謡「カチューシャ」を日本語で歌っていた。

 食事は、抑留時に携行した米などを当番が大きな飯ごうで煮炊き。パンも提供されたが「量は明らかに不足」「粗末だった」。空腹を満たすためか、村の農家が大豆の油を絞った後で家畜の飼料にする油かすを、持っていた砂糖と交換して食べた。食堂やテーブルもあったが、床に座って箸を使う姿は「異様だった」と印象を伝える住民も。

 収容所内は清潔で「自分のことは自分でしようと努めていた」というが、寒さには「なんとか耐えているのを見て、痛ましく思った」「毛皮の外套をまとい、毛皮の手袋をはめ、毛皮の靴をはいても防げなかった」。森を伐採し、まきを燃やして暖を取ったが「最初の冬に寒さで死んだ」と過酷な環境を記述。遺体は「焼いて遺骨を地中に埋めた。埋葬地の表示はなく、墓地の各所に移され、今は資材集積場の周辺にある」と記されている。


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