勝家「本能寺の変」直後の書状 光秀の動向つかめず、討伐で後れ

柴田勝家が溝口半左衛門に宛てた書状(冨沢信明新潟大名誉教授提供、書状の一部をモザイク加工しています)

 織田信長の重臣、柴田勝家が、明智光秀に信長が討たれた「本能寺の変」の8日後に、織田方の武将に宛てた直筆の書状が16日までに、新潟県新発田市で見つかった。勝家は光秀の動向を把握しておらず、調査した三重大の藤田達生教授は「勝家が光秀討伐で後れを取った理由の解明につながる貴重な発見」としている。

 書状は本能寺の変の8日後の天正10年6月10日、現在の福井市の居城にいた勝家が織田方の溝口半左衛門宛てに書いた。新発田市の溝口家に伝わる資料から発見された。

 書状は光秀が拠点の近江(現在の滋賀県)にいるとみて、丹羽長秀と連携して討伐する計画を記しているという。


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