立ち込める炎と黒煙 警備本部の「長い一日」 管制塔襲撃 【ナリタ30年 地域と空港】

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 「管制塔に乱入された」。警備本部長に報告する山形基夫・新東京国際空港署長の声が警備本部に響いた。成田警備の警察官の「長い一日」が始まった。山形署長は機動隊の出動服に身を固め帽子のあご紐をかけていた。

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 一九七八年三月二十六日午後一時十五分ごろ、全国から動員された約一万四千人の警察官の警備の間隙を縫い、火炎瓶、無線機、ハンマーなどを持った過激派十五人が排水溝を伝わり新東京国際空港(現成田国際空港)内に侵入した。マイクロ通信室で機器類、空港機能の中枢、管制室も破壊された。管制官は屋上に逃れヘリコプターで救出された。

 トラック三台に分乗した過激派が第三ゲートを突破し、空港署の目の前で火炎瓶を投げ付けていた。炎の熱と黒煙、警察官による威嚇射撃の発砲音。警備本部のすぐ足元でも激しい攻防が繰り広げられていた。

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 実施第一係長として警備本部に詰めていた、元空港警備隊長の手島晴夫氏(60)は、刻一刻と変化する事態に対処するため警察部隊を移動させようとしていた。しかし「遠くの部隊を動かす頼みの綱の無線機は、妨害電波に乗った女性歌手の歌声により通信不能に陥っていた。回復したころは事後処理の状態だった」と振り返る。

 「悔しさはあったが(管制塔襲撃に)落ち込んではいられなかった。やるべき仕事は多かった」と話す手島氏の手帳には、二十六日午前六時半警備本部「入」、二十八日午後十一時「出」と記されていた。

 一方、二十五日の夜、機動隊は過激派の突入経路となったマンホールの周辺でヘルメット姿の男の身柄を確保していた。リュックサックには火炎瓶を忍ばせていた。しかし、マンホール内の検索は行われなかった。「中を調べていれば(襲撃は)防げたかもしれない」との思いは今も手島氏に残る。

 「成田警備で鍛えられた能力は全国植樹祭など大きな警備に生かされている。開港から三十年が経過したが、常に危機意識を持ち続けることが重要だ」と戒めを込めた。

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 激しい反対運動を念頭に、「難産の子は穏やかに育つ」と当時の運輸大臣は成田空港の開港式典でこう表した。それから三十年。現在では日本を代表する国際線の基幹空港として押しも押されぬ存在に成長した。本県や周辺地域にとっても大切な財産である成田空港。過去、現在までの軌跡を振り返り、未来に向けた姿を展望する。