厳戒下、質素な門出 一番機にそれぞれの思い 仕切り直しの開港 【ナリタ30年 地域と空港】

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 管制塔事件について「開港日(一九七八年三月三十日)が目前に迫っており予想だにしなかった」とする新東京国際空港公団(現成田空港会社)の元職員男性(62)。事件後、約二カ月という限られた時間内で、警戒、連絡システムの構築に全力で取り組み、忙しさに緊張感が加わる毎日が続いた。開港前日はシステムの作動状況の確認に追われ、第二ゲート周辺で夜を明かした。

 “出直し開港日”の五月二十日。式典の出席者はわずかに六十人ほど。その後にパーティーなどの華やかなセレモニーもなく、日本の空の表玄関の門出は、あまりにも質素だった。空港内外では全国から動員された一万三千人の警察官が厳戒態勢を敷いていた。

 二十一日早朝、米国・ロサンゼルスから日航貨物機が着陸。正午すぎには西独・フランクフルトからモスクワ経由の日航446便が約八十人の乗客を乗せ到着。重い歴史を背負いながら成田空港の幕が上がった。

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 旅客一番機のフライトエンジニア席には、セカンドオフィサーとして山田不二昭氏(59)=現日本航空運航本部長付部長、ジャンボ機機長=が座っていた。管制塔襲撃による開港延期で「一番機には乗れないだろう」と思っていたが、再び乗務することになり、新空港の歴史に足跡を残すことになった。

  緑が濃い初夏の北総台地。四千メートル滑走路に降りた日航機の乗客と乗員を多数の報道陣が待ち構えていた。しかし、山田氏は「警備は万全だろうが、セキュリティー面が気がかりだった」と不安を隠せなかった。

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 空港反対運動の支援学生だった男性(51)は、開港延期に「一時的には勝ったと思っていた」。しかし、空港は二カ月遅れで開港。岩山鉄塔周辺で古タイヤを燃やし、黒煙がたなびく空を見上げた男性の頭上を着陸寸前の「DC8」の胴体がかすめた。エンジンの爆音に男性は「『飛んじゃったんだ』とがっかりした」と振り返る。

 男性は、成田闘争への思いを残しながらも疲れと違和感からこの年、電車やほろ付きトラックで通った反対運動の現場を離れた。そして九三年に仕事で海外へ行くまで約十五年、一度も成田空港に足を踏み入れなかった。男性は「開港前はあれほど突入したんだけど…」と苦笑した。