2020夏季千葉県高等学校野球大会 あの瞬間を捉えた写真も多数

極寒の地 過酷な労働 夢断念、仲間も息絶え シベリア抑留2年 中山輝夫さん(94) =鋸南町= 【戦後75年千葉 記憶を令和に】 (5)

戦時中の資料に目を通す中山さん=12日、鋸南町
戦時中の資料に目を通す中山さん=12日、鋸南町

 1944年3月、獣医師を志し満州(現中国東北部)に渡ったが、現地で召集されソ連軍との戦闘を経験した。日本軍は敗走し、捕虜となってシベリアに2年間抑留された。収容所での生活は過酷で、衣服や食料も十分ではなく仲間は次々と命を落とした。極寒の地での光景をいまだに忘れられずにいる。(報道部・中野采香)

 43年12月、戦争が激化したことを受け、当時通っていた安房農学校を繰り上げ卒業した。翌年の3月、国費で獣医師の資格を取得できた満州へと渡った。将来は故郷の酪農業の発展に貢献したいとの思いから、現地で勉強に励んでいたが、45年5月に召集され銃を手にすることになった。

 8月9日未明のことだった。ソ連軍の航空機が投下した照明弾で、周囲が昼間のように突然明るくなった。ソ連が日本と領土の不可侵などを約束した中立条約を破り侵攻してきた。火炎放射する戦車に迫撃砲。すさまじい攻撃で何人もの兵隊が亡くなった。初めての本格的な戦闘に足がすくんだ。

 所属していた部隊の最高責任者も戦死。直属の上司に当たる中隊長から、3個の手りゅう弾を渡され言われた。「1発はキャタピラにぶつける。そうすると中から人が出てくるから、そこを狙ってまた1発ぶつける。最後の1発は自決用だ」

 勝算はなかった。戦闘訓練は不十分で、陣地は未完成。銃器もほとんどなかった。砲弾が刺さり血だらけで、動けずにいる日本兵ともすれ違った。「ここで人生が終わるのか」。異国での死を覚悟した。

 敗走を続け、日本の敗戦を知ったときには初めて悔し涙を流した。獣医師の夢を断念し、国のために戦った苦労は何だったのか。それでも、やっと日本に帰れると仲間と喜び合った。ソ連兵から「ダモイ(帰国)」と追い立てられながら行軍し、貨物列車にも数日揺られた。日本に向かっていると思ったが、たどり着いたのは極東のコムソモリスクというまちだった。捕虜になったのだと知った。

 収容所での生活は過酷を極めた。冬のシベリアの気温はマイナス35度。風が吹くと体感温度はさらに下がり、足の指は凍傷になった。地中に水道管を埋設する工事は、大地が凍りつき掘り進めることができなかった。

 大木を伐採する作業では、厳しいノルマが課せられた。食料は少なくシラカバの樹液を集めて飲んだり、野草を塩ゆでして食べることもあった。脱走を試みて銃殺された人、栄養失調で厳しい冬を乗り越えられず息絶える仲間もたくさん目にした。

 何とか生き延び、47年秋に日本に戻ることができた。鋸南に向かう途中の千葉駅だった。終列車を待っていたら、女性から「おなかはすいていないか」とおにぎりを手渡された。「帰国して初めて人の温かさを感じた」と振り返る。

 「家族を戦地に連れて行かれ、残された人が逃げる姿をいやになるほど見てきた。私自身も戦地に行くことになり、親不孝なことをした」。そう打ち明け「戦争はもう二度とあってはならない」と語気を強めた。

 「当時の経験を伝えていくことで、悲劇を繰り返すことがなくなれば…」。75年前、戦争により青春を奪われ、夢を諦めるしかなかった。令和を生きる若者たちに不戦の願いを託す。

=終わり

 なかの・さやか 1993(平成5)年6月3日生まれ。2018年7月に入社し社会部に配属。現在は経済担当。「戦争を経験していないから知らない、という言葉で片付けるのは無知だと痛感した。風化させないよう、同年代や若い世代に継承していきたい」


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