史跡や伝説、数多く 【新春にトリビア満載 亥鼻物語】(上)

天守を模して建てられた千葉城。傍らには弓を構える千葉常胤の銅像も
天守を模して建てられた千葉城。傍らには弓を構える千葉常胤の銅像も
神明社を紹介する千葉市立郷土博物館の朝生智明館長
神明社を紹介する千葉市立郷土博物館の朝生智明館長
君待橋の石碑
君待橋の石碑

 上空から地形を望むと、まるでイノシシの鼻のよう-。千葉市中央区亥鼻地区は千葉のまちを開いた千葉氏が拠点を構えた土地。千葉氏の登場とともに寒村から都市へと変貌する市の発展が始まった。今も史跡や伝説が多く残る。一方で史実を伝える文献は数少なく、地名の由来も「イノシシの鼻の形をしている」や「地形の突端が亥(北西)を向いているから」など諸説ある。2019年の干支「亥(い)」にちなみ、亥鼻で“トリビア満載”の歴史をひもといてみては。

◆天守模した博物館 千葉城

 古くから桜や展望の名所として親しまれてきた「いのはな山」。緩やかな台地には史跡や記念碑、石碑に加え、千葉県立文化会館などの施設が並ぶ。てっぺんの「猪鼻城跡」には千葉氏中興の祖、千葉常胤の銅像と、地域のシンボル「千葉城」がそびえ立っている。

 「本物のお城?」と驚く人も多いが、実は1967年に天守を模した展示施設、市立郷土博物館として建てられた。千葉氏と関係の深かった北条氏の小田原城(神奈川県小田原市)がモデル。千葉城をソメイヨシノが彩る春には、趣ある眺望を目当てに約6万人が訪れる。

◆外敵から守る“とりで” 土塁跡と神明社

 千葉市立郷土博物館周辺一帯は「猪鼻城跡」と呼ばれる。千葉氏の館があったと長い間考えられてきたが、近年の研究では館はふもとの平地にあったとする説が有力。城はもっと後の戦国時代のもので、外敵から土地を守る“とりで”の役割を果たしていたらしい。

 同館前の亥鼻公園広場が城跡の中心部。今は市民の憩いの場になっているが、回りを固めるように、敵の侵入を食い止めるため土を盛った土塁の跡が残る。

 鬼門の方角には猪鼻城の守護神として伝わる「神明社」がある。城跡から社殿への道が大きく上下しているのは空堀の名残。神明社からは、かつて東京湾の海岸線を一望できたという。

◆頼朝を出迎えた伝承も 君待橋

 千葉市中央区港町の歩道沿いにたたずむ「君待橋之(の)碑」。君待橋は新川という溝に架けられていた小さな石橋の名前だが、明治中ごろの県道拡張工事でなくなった。代わりに建てられたのがこの石碑だ=写真。

 ロマンチックな名称には伝承がいくつも残る。そのうち一つが、源頼朝が海を渡って千葉にやって来た際、常胤ら千葉氏一族が橋で出迎えたとする説。頼朝が橋の名を尋ねると、常胤の6男が進み出て口を開いた。「見えかくれ八重の潮路を待橋や 渡りもあえず帰る舟人」-。この時の和歌が君待橋の名の由来になったという。

 伝承の中には、橋のそばで恋人を待ち焦がれた女性の悲しい物語も。碑から約130メートル北の川には後の1972年、新たな君待橋が架けられた。千葉の歴史を語り継ぐ橋は場所を変え、今も人々の往来を支えている。

◆千葉氏一族が産湯に お茶の水

 千葉城から大和橋への階段を下りきると、「お茶の水」と刻まれた石碑と四角い台座が見えてくる=写真。東京の御茶ノ水-ではなく、かつて湧いていた泉の名残。千葉常胤がここで清水をくんで茶をたて、源頼朝にすすめたと伝わる。

 「茶の歴史を考えると、近世になって話が作られた可能性が高い」と千葉市立郷土博物館。千葉氏一族が代々産湯水に使い、子どもの健康と武運長久を願ったともいわれる。いずれにせよ、亥鼻の貴重な水源として大切にされていたことは間違いなさそう。

 すぐそばに不動尊が祭られていることから、泉を「不動の滝」と呼ぶこともあったとか。


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