愛にお返しはない

  • LINEで送る

 私はお見舞いをもらってもお返しをしない。お見舞いは医薬の援助であり、お返しはその好意を無にする行意、という屁(へ)理屈。

 「お返しは、助力への謝意の証明で、その証明を品物に変え、心を乗せて返礼する」

 つまり感謝の気持ちを届ける術(すべ)としてお返しがある、というわけだとしても、たいていの人は1万円もらうと2、3千円の品を返し、これでもうチャラ(五分)だとサッパリしたような顔をする。

 それだったら、1万円をそっくり診療費に当てさせてもらい、例えば私の場合なら、ワーファリンをはじめ多量の薬代に役立てた方が、見舞客の温情に応えることになると思う。

 と言いつつも、私は自分の言葉が詭弁(きべん)であることに気付いている。気付いていながら屁理屈をこねる私は、要するにずるいのであり、それ以上に横着ということになる。

 私は、お返しの品物を選ぶのがおっくうであり、それ以前にデパートへ行くのが面倒だ。

 品物を選ぶのがおっくうだと言ったが、本当は口で言うほどおっくうではないかもしれない。

 お返しする相手の顔が浮かんでくるうち、その個性や好みをあれこれ孝慮しながら品物を選んでいく。過去にそうした経験があり、成績は当たるも八掛、当たらぬも八掛で、当たれば皆さん喜んでくれる。

 文頭の主意が破綻(はたん)をきたすようだが、お見舞いをし、お返しをするという交換行為は、儀礼だとしても「隣人愛」を根源にしていると言える。

 「愛は勝負を競わないピンポンだ」

 と以前に言ったことがある。結婚披露宴での祝辞だったと思う。新郎新婦が各々の学生時代、共通してピンポンをやっていたと聞いてその話をした。...