貞子先生に見守られ

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 私は市原郡市西村新堀の生まれで、姉・兄・次姉を上に持つ末子だった。おまけに早生まれで、市西小学校へ上がると一番のチビだった。並び順はいつも先頭で、先生の笑顔をひとりじめにする感覚だった。

 高橋貞子先生はやはり新堀在住で、村では「医者どん」の先生と呼ばれていたが、実際の「医者どん」は住年のことらしい。

 太平洋戦争の終結(昭和20年8月15日)前、10歳になった私は、市西小の低学年グループとして、貞子先生の「医者どん」の前庭で、桑の枝木の皮むきをしていた。兵隊さんの服をつくる繊維を取るためだという。

 20歳そこそこの貞子先生に生徒らは憧れ、先生もまた、姉か母のような笑顔のぬくもりでみんなを包んでくれていた。

 終戦直前、貞子先生は一生分の不幸に見舞われ、固有の笑顔を失った。

 半ドン(半休日)の学校からの帰途、山の向こうからすいと現れた敵機の機銃掃射に、女子生徒が3人撃たれ、1人は絶命した。3人とも貞子先生の大事な生徒だった。

 笑顔を悲嘆の場に置き忘れた貞子先生は、それでも私らの成長をずっと見守ってくれて、子どもらの母とも懇意にしてくれた。

 貞子先生は私の母のことを、あんなに頭の良い人は少ない、としお君も自慢していいよ、と言われた。

 子をほめられる親もうれしいだろうが、親をほめられる子もうれしい。

 貞子先生は生徒をうれしがらせながら、70年間にわたり見守ってくれて、平成24年7月30日に亡くなられた。享年99歳の「白寿」で、来年100歳のお祝いをすると、市原市役所から通知があったとご家族から聞く。......