甘えの構造・青年期

  • LINEで送る

 学制改革(1947)により発足した高校を二、三はしごし、その2番目が1948年4月開校の県立市原高等学校だった。

 私の幸運はここで深沢幸雄先生とのご縁を得たことだった。

 深沢先生は美術の担当教師で、実技のダメな私の感受性を買って下さり、他者の作品に対するかってな批評眼を面白がって下さった。

 深沢先生の、それなりの知遇を得た思い込みに満足し、1年たらずで市原高校を離れたが、なぜか同級生にかわいがられ、後年の卒業生名簿にも客員として名前が載せられ、同窓会等にも呼ばれた。

 市原高校を退学すると、東京都品川区豊町の日本音楽高等学校に転入し、通学拠点としては、千葉市(中央区)道場南町の石丸家の小部屋を選択した。つまり姉の嫁ぎ先で、私も義兄に愛されていた。

 クラスは女子が主流で、男子は数名だった。皆、器楽も声楽も幼時レッスンからのようで、自己流で演歌ギターを弾く私など蚊張の外だった。ただ一般学科の成績がやや上位だったせいか、女子にひいきにされ、近くの戸越公園に遊びに行ったときなど、上等な弁当をプレゼントされることもあった。

 かなり年長の同級生だった金子さんは、演歌と演歌ギターの名手で、横浜元町で「流がし」をやっていたが、いつか私もそのアシスタントとして「湯の町エレジー」などを歌っていた。

 日本音楽学校、通称「日音」は、本科・付属高校ともにクラシックが主流だったが、ジャズ歌手も歌謡歌手も巣立っていて、そのうちには「この世の花」でヒットした島倉千代子さんも、かわいいアコーディオンを肩に掛けて日音高校に通学するようになる。......