2020夏季千葉県高等学校野球大会 あの瞬間を捉えた写真も多数

文化部長50年史

 県紙「千葉日報」が五十周年を迎えた。そして私との付き合いも五十年になる勘定だが、内容はそれ以上に濃い。

 十六、七歳時、千葉市道場南町の三畳間に寄宿していた。上の姉の嫁ぎ先だった。

 県下の高等学校を数校退学して、東京の音楽学校高等部に通っていた時分だ。余談だが、その音楽学校高等部には、二年先輩として島倉千代子さんが入ってきた。

 クラシックの学校だったが、歌謡曲『この世の花』で大ヒットを飛ばした島倉さんは、経歴づくりのためか思いがけない入学だった。

 小型のアコーディオンを肩にかけ、さっそうと校門を入ってくるお千代さんは、かわいい上にかっこうよかった。

 ところで私は、その後お茶の水の「アテネフランセ」でフランス語をかじり、アバウトな発音でシャンソンを歌うようになった。

 そうなると、たちまちリサイタルを考えるのが私のくせ。

 私は、専門医にかかるほど羞恥心の強い人間だが、一方そっちの方へ鼻面が向くと、無心で猪突する病気がある。

 リサイタルは千葉市教育会館ホールで開催し、当時の「千葉新聞」文化部が取材してくれて、確か「おらが村のシャンソン歌手」という見出しで記事になった。

 写真入りで私を紹介してくれた記者が遠藤寛夫さんで、以来二人は生涯の兄弟分になり、その間柄は「千葉新聞」が「千葉日報」に移ってからも続いた。

 リサイタルは十数回続き、それなりに親や兄にめいわくをかけた私は音楽学校高等部卒業後、一般大学の方に行き、卒業して中学教師になりかけたが、やはり性に合わず、週刊誌の編集部に籍を置き、またテレビの脚本書きをするようになった。

 遠藤さんに勧められ、千葉日報にもエッセーを書くようになったが、遠藤さんは、うまい文章よりも、分かりやすい文章を書くようにと、口ぐせのように言っていた。

 出会った二人目の文化部長は坂本裕久さん。記者時代、部長の遠藤さんに付いて、アシストしていた姿が目に浮かぶ。

 目に浮かぶといえば、その人懐こい微笑が忘れられない。目立つ笑顔ではなかったが、滋味があり、人の心をあたためる笑顔だった。

 固有の才筆で、語り聞かせるような説得力があり、私の提出する原稿など、さりげなく、それでいて意味が通るようにリライトしてくれた。

 残念なことに、遠藤さんも、坂本さんも、早世された。

 羽石整史部長さんは、原稿に注文をつけることがなかった。その寛大さに感謝しながらも、自己責任を考えると不安だった。その不安が、突っ走る文章癖のブレーキになったようだ。羽石さんは、私が「カルチャー千葉」に原稿を書くきっかけもつくってくれた。...


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