日本史の中の郷土史(上)

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 私はかねがね、自分の知識を人に押し付けるときは、自己暗示をかけて秀才となり、とうとうと論述を展開すればいい、そして化けの皮がはがれたときは泣けばいい…と吹聴(ふいちょう)し、大方は軽視されるも、中にはおもしろがって付いてくる少数派もいる。ただし私の吹聴を真に受けず、自分なりの奥行きを勉強しているようだが。

 最後の弟子(酒井の)を自称する東金市の戸村寿彦氏から、少々牽強付会(けんきょうふかい=こじつけ)ではありますが、という前文付きで小論文が送られてきた。

 「東金市山田地区に、西行ゆかりの墨染桜があります。山あいの集落にぽつんと残された一本桜です。(この西行の墨染桜と、将門伝承を結び付け、東金市が、将門伝説の地として名乗りを挙げることに成功したのです)

 墨染桜といえば、本家本元は京都の墨染寺、その昔は貞観寺といい、ここの桜に向かい、上野峯雄が、関白・藤原基経の死を悼んで詠んだ歌-深草の野辺の桜し心あらば今年ばかりは墨染に咲け-などというのは、先生には説明の必要がないでしょうが。(というのは私に対する戸村氏の好意ある皮肉)

 東金市に伝わる墨染桜の由縁では、西行がこの歌をパクったことになっていて、それが-深草の野辺の桜木こころあらばまたこの里に墨染めに咲け-という歌です。西行が山城国(京都)から持ってきた杖をこの地にさすと、やがて芽吹き、花をつけるようになり、その花は枯れても散る様子はなく、ただ花の色を灰色に変えて「墨染桜」と呼ばれるようになった、というのが東金の墨染桜伝説のあらましです」

 上野峯雄の古今集所載の歌-今年ばかりは墨染に咲け-という結句は、藤原基経への「追悼」だが、西行のパクリ歌-またこの里に墨染に咲け-の方は、墨染桜を墨染衣(すみぞめのころも)に置換(ちかん)する趣は同様でも、戸村氏はこのフレーズを「服喪」に解し、その喪に服すべき主を源頼朝と指名する。・・・