里見氏の悲劇 南総里見八犬伝(17)

  • 0
  • LINEで送る

 馬琴が『八犬伝』を書くきっかけとなった里見家の重要人物がいます。安房里見氏最後の城主・九代忠義(ただよし・稲村城の戦いを内紛とし、九代とする説が有力)です。里見の居城として知られる館山城(館山市)の城主でした。

 『八犬伝』は安房里見三代までを描く話で、時代はかけ離れますが、しかし忠義の悲運が馬琴に筆を執らせる要因となりました。

 忠義は、小田原城主で佐渡金山奉行をしていた大久保忠隣(ただちか、徳川家康の三河時代からの家老・忠世の子、大久保彦左衛門忠教の甥?)の長男・忠常の娘を室とした人物。忠常夫人は徳川家康の長女・亀姫と奥平信昌の間に生まれた女子で、忠義は家康の曾孫婿にあたります。

 大坂冬の陣(1614)の前年、忠隣が謀反の罪をうけ、叛意の証拠の武器弾薬、佐渡の隠し金などもみつからなかったにも関わらず失脚。事件は闇に包まれたまま忠隣は自害し、大久保家は改易となります。本多正信・正純親子の陰謀とも言われています。

 忠義は連座の法(親戚の者が罪を犯したとき、その犯罪に関わらなくても罰せられる法)により、安房12万3千石から、わずか3万石の伯耆国(ほうきのくに・鳥取県)倉吉(くらよし)に移封され、館山城は早急に取り壊されました。倉吉での実際の石高は千人扶持程度で、さらに減らされ、最後は百人扶持となり、29歳の若さで病死(憤死か?)。跡継ぎがなく里見家は取り潰されました。

 新井白石の『藩翰譜』によると、忠隣に米穀を送り、鉄砲足軽隊を派遣したこと、館山城を修復し防備を固めたこと、新たに諸国浪人を召抱えたことなどが理由に挙がっています。確たる証拠もなく酷い仕打ちを受けた忠義の供養と、徳川家康批判がこの物語にはこめられているのです。

 倉吉には忠義の墓の周囲に殉死したと伝えられる家来達の墓が建っています。(『房総の秘められた話奇々怪々な話』・崙書房を

 参照)殉死者は7人とも、8人とも伝えられ、これが八犬士登場の由来とも考えられています。安房には、忠義の縁者の和尚が殉死者の骨を八つの蛸壺に入れて秘かに館山に持ち帰ったという伝説もあります。

 忠義が移封となった伯耆国ですが、足利尊氏に抵抗した後醍醐(ごだいご)天皇が流された隠岐の島から脱出して住まわった土地で、天皇が尊氏をのろい、再起を祈願した場所が伯耆国です。『太平記』には天皇自ら密教の法服を着用し、祈祷用道具を両手に持ち護摩を焚いたと書かれています。

 馬琴は伯耆国で憤死した忠義の怨霊に後醍醐天皇の不屈の神通力を仮託させ、霊玉を持つ八犬士を登場させたのかもしれません。