報じられないことは「仕方がない」 東北の陰で「忘れられた被災地」は 【#あれから私は】

 東日本大震災による津波などで死者14人(災害関連死1人含む)・行方不明者2人に及ぶ甚大な被害があった千葉県旭市は、「忘れられた被災地」とも呼ばれた。東北3県の被害ばかりを大きく取り上げるマスメディア。自分たちの街で何が起きたか分からなかった住民自身が立ち上がり、被災体験や復興の取り組みを伝える手作り新聞の発行を開始した。

 それから10年。今もさまざまな活動が地元で続いている。昨今、高齢化や新型コロナ禍の影響も受けているが、自分たちの暮らす地域で起きた出来事や教訓を先につないでいこうという思いは変わらない。
(銚子・海匝支局 橋本ひとみ)

過去の「復興かわら版」。温かみある似顔絵は楽しみにしてくれる取材相手もいるという 過去の「復興かわら版」。温かみある似顔絵は楽しみにしてくれる取材相手もいるという

知られていない被災地、その時

 2011年3月11日、旭市は震度5強を観測し、午後5時25分すぎには最大高さ7・6メートルの大津波に見舞われた。海側中心の津波被害に加え、液状化被害も発生。避難所には一時約3千人が身を寄せた。市によると、全壊336世帯など住宅3828世帯に被害が出た。

 「津波は繰り返し襲ってくる」。津波被害の大きかった飯岡地区に半世紀以上暮らす戸井穣さん(76)は震災後、市防災資料館の2014年開設に尽力。2月末に健康面などを理由に勇退するまで、館長として津波の脅威を伝えてきた。午後2時46分、自宅で過ごしていた戸井さんは「地球が終わるんじゃないか」という揺れの後、1キロ弱ほど離れた飯岡漁港に様子を見に行くと、底が見えるぐらいに水が引いていた。「これは大きい津波が来るぞ」

 街の光景は一変した。近くの通りは海の方からトタン屋根の倉庫が押し寄せ、あらゆる家財道具やがれきが重なり泥砂も積もった。安否が気がかりだった近所の高齢女性が津波で亡くなり、心を痛めた。「火事場泥棒」に警戒し、夜はライトを手に長靴を履いて近所を歩いて回った。物の片付けは進んでも海のヘドロと魚の混じったような臭いがしばらく続いたという。

旭市防災資料館に展示される「忘れじの時計」。同館は市内の被災状況はじめ復旧・復興の歩みをたどることができる旭市防災資料館に展示される「忘れじの時計」。同館は市内の被災状況はじめ復旧・復興の歩みをたどることができる

地域で情報共有 60余号「復興かわら版」

 自分たちの街で何が起こったか。被害が集中した旭市飯岡地区を拠点にするまちづくり団体が発生後間もなく、震災を記録しようと立ち上がった。

 「戸を開けたとたんに津波が入ってきた」「自転車がひっくり返ってそのまま流された」―。初期の「復興かわら版」が生々しい体験を伝える。発行するのは地元のNPO法人「光と風」。13年にNPO化する以前、前身の団体はもともと震災前から地域の観光振興や情報発信を目的に活動していたが、震災の被害を目の当たりにして手作り新聞を手掛けるようになった。A4判両面刷りの新聞は、飯岡地区をはじめ市内で約7千部が配布されている。

 取材執筆を担う元高校教員の渡辺昌子さん(74)は、海岸線から100メートルほどにある飯岡地区の自宅が大規模半壊。かつて父親や近くの人が「ここら辺は大きい津波は来ない」と話すのを聞いた覚えがあり「まさか」という思いだった。

 テレビや新聞は東北の情報が多く、最初は自分の街で何が起こったかよく分からなかった。海泥の入り込んだ家の片付けが落ち着いてくると、愛着ある地域の変わりぶりに驚かされた。これからも暮らし続けるにはどうしたらいいか。「光と風」の理事長を務める夫の渡辺義美さん(76)とも話し合い、「悲劇を繰り返さないためにも、未曾有の被害を記録に残して後世に伝えるべき」と11年5月から昌子さんを中心に聞き取り活動に着手した。集まった情報を地域で共有しようと同年10月には「復興かわら版」を創刊し、被災体験と併せ復興を目指す市内個人店や企業などの紹介を始めた。

 市内は海に接していないエリアもある。活動から1、2年たっても、「どの辺で津波被害があったの」という市民の声を聞くなど、地元でも十分に被害が知られていない歯がゆい状況が続いた。一人ひとりがどのように被災し考えているか、丁寧に耳を傾けた。「この人も被害を受けたんだ」と、次第に反響が聞かれるようになった。「市内の全域で配られるかわら版が、情報を共有してもらえるツールになる」と実感した。

 一方、マスメディアがこの街をあまり取り上げないことについては、「東北の方が被害がすごいので仕方がない」という思いだった。

 翌12年に聞き取り調査を書籍にまとめた後も「かわら版」は継続し、当初の毎月から現在は数カ月に1回間隔で発行。220人以上の住民や店を取り上げた。温かみある似顔絵も好評で、現在3人目となるボランティアが描く。昨年12月発行の第61号は、震災10年における住民の「今」の思いや状況のほか、地元グループの津波研究を特集した。

 震災を語り継ぐことを目的にした地元発の文芸賞「旭いいおか文芸賞『海へ』」の実行委員会には、「光と風」のメンバーが参加し、事務局としてサポート。会長は昌子さんが務める。5年目の今回は小中高生ら約1200点の作品が寄せられた。震災を知らない若い世代も、親や祖父母などに話を聞いて作品に取り組むことにより、将来につながることに期待する。

復興かわら版を手掛ける渡辺昌子さん復興かわら版を手掛ける渡辺昌子さん

重なる試練と岐路

 ただ、活動から10年がたち、さまざまな課題に直面している。

 まず、地域で進行する高齢化だ。10年の間には亡くなった取材相手もいる。ほぼ1人で取材を続けた昌子さんは「直接知る人が少なくなる中でどう語り継いでいくか」と悩みを吐露する。「光と風」の約20人のメンバーも今、70代が中心だ。

 19年秋には、千葉県を相次いで襲った台風で、活動拠点になるプレハブ事務所が被災。使用不能となり建て直しを余儀なくされた。

 さらに、昨年から続く新型コロナウイルス禍で、伝える活動も制約を受けている。旭いいおか文芸賞は昨年度の本審査会が中止になり、今年度は規模縮小で開催にこぎ着けた。現在NPOで受け取る補助金も本年度末で期限を迎えるなど、財政面でも厳しい。

 自身も年を重ね、「継承はしていきたいけれど肉体的にも精神的にも難しい」と話すNPO代表の渡辺義美さん。「復興」は十分ではないが、ある程度達したと捉え、「一つの区切りと考える時期にある」と考えている。かわら版は3月11日付で最新号の第62号を発行後、翌63号まで構想があるが、その先は未定だ。

 「語り継ぐ活動」のほかにも、これまでに県内外から参加者を集めた防災教室や、まちづくりコンペ、プレハブ仮設住宅の保存・展示など多くの活動を展開してきた。歩みを振り返る展示を、市内の飯岡刑部岬展望館で2月21日~3月14日に開催。今後の活動の方向をどうするか、義美さんは今年の3・11を終えてから決めていきたいとしている。「できれば若い方に引き継いでもらえたらな」と昌子さんは願う。

規模縮小で開催に至った本年度の「旭いいおか文芸賞『海へ』」本審査会規模縮小で開催に至った本年度の「旭いいおか文芸賞『海へ』」本審査会。舞台上は作品を朗読する小学生(2月14日、旭市)

なぜ伝えることが必要か

 市内の海岸堤防は4・5メートルから6メートルにかさ上げされるなどインフラの整備は進み、震災の痕跡は見えにくくなった。が、市防災資料館館長を務めた戸井さんは「一概に復興は進んでいると言えない」と話す。地域をつぶさに観察すれば、被災した家の土台部分やブロック塀が残る空き地も散見される。自身の住まいのある区の世帯数も震災後に半数の20まで減った。近所を歩いている人が減り、笑い声も少なくなったことを残念がる。

 聞き取りを収めた書籍や「復興かわら版」からは、一度避難したものの家に戻ったり避難が遅れたりして津波に遭遇したケースが少なくない。「光と風」の渡辺義美さんは震災後、江戸時代の元禄地震(1703年)で襲来した大津波で70余人が亡くなったという地域の歴史があると知った。地元出身者で知らない仲間もいたという。「こういう出来事があったという認識が日常の中にあるように」と未来を見据えて語り継ぐ意義を説く。昌子さんも住民が語ってくれた被災体験から津波への備えについて考えさせられた。「元禄津波のことがもっと広まっていて警戒していたならば」「震災の教訓を残さなければならないと思う」と聞き取りを通して実感した。

 この地域で何があったか。知ろうとすれば学ぶ場があり、津波の怖さや自然災害への備えを考える機会を与えてくれる。さまざまな関係者が続けてきた「伝えるための活動」があってのことだ。震災10年を前に風化も懸念されるが、市防災資料館長だった戸井さんは「被害を最小限にとどめるためにも、過去の災害から得られた教訓を生かさなければならない。みんなで共有して、忘れてはならない」と力を込める。

旭市の刑部(ぎょうぶ)岬から飯岡漁港や九十九里浜を望む。夕日の鑑賞スポットでもある旭市の刑部(ぎょうぶ)岬から飯岡漁港や九十九里浜を望む。夕日の鑑賞スポットでもある

※この記事は、千葉日報とYahoo!ニュースによる連携企画記事です。東日本大震災後の千葉の「あれから」について、全4回の連載で伝えます。


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