首都防衛の人工要塞島 二つの小島、風化進む 東京湾の海堡=富津市= 【戦後70年ちば 第2部 モノが伝える】 (特別編)

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首都防衛のため造成された東京湾の人工要塞島「第2海堡」。くいやコンクリートで護岸の整備が進んでいる=11日、富津市沖(共同通信社ヘリから)
首都防衛のため造成された東京湾の人工要塞島「第2海堡」。くいやコンクリートで護岸の整備が進んでいる=11日、富津市沖(共同通信社ヘリから)
首都防衛のため造成された東京湾の人工要塞島「第1海堡」。左上は「第2海堡」(共同)
首都防衛のため造成された東京湾の人工要塞島「第1海堡」。左上は「第2海堡」(共同)
富津市沖の第2海堡に残る、見張り台とみられる戦争遺構=12日(共同)
富津市沖の第2海堡に残る、見張り台とみられる戦争遺構=12日(共同)

 タンカーや貨物船が頻繁に往来する東京湾の入り口、富津市沖に二つの小島が浮かぶ。海からの首都侵攻を食い止めるため、終戦まで国防の重要拠点とされた「第1海堡(かいほう)」と「第2海堡」だ。これらの人工要塞(ようさい)島は旧日本軍の機密下にあった。軍事大国を目指した末に悲惨な戦争に突き進んだ近代日本の陰影が残る島は風化が進むが、今なお立ち入り禁止だ。

 海堡は、幕末の黒船来航が記憶に新しい明治期に建設が始まり、大正期までに東京湾に3カ所造成された。だが、神奈川県横須賀市沖の「第3海堡」は1923年の関東大震災で崩壊。海上交通の支障になるとして、2007年までに撤去された。

 東京湾に軍艦の侵入を防ぐため造られたが、太平洋戦争では航空機による空中戦が主力に代わり、要塞の役割をほとんど果たさなかったという。終戦後、進駐軍に施設を破壊された。

 8月中旬、管理する国土交通省の許可を得て、共同通信記者が第2海堡に上陸した。長い間、波風にさらされた島の護岸は崩れ、れんが造りの地下壕(ごう)の入り口は土砂に埋もれていた。

 ひびが入った巨大な砲台の上には戦後、海上保安庁の灯台が建てられ、周辺にはソーラーパネルが並ぶ。小高い丘には見張り台らしきものが残り、房総半島の先まで見渡せた。

 地震で崩れる恐れがあるため、国交省は護岸にくいを打ち、コンクリートで固めるなど整備工事を進めている。

 第2海堡の約2・5キロ東にある第1海堡は財務省が管理する。ヘリから見下ろすと船着き場は壊れ、地下でつながっていたという砲台や見張り台が草木に覆われている。島の一部はえぐれるように崩れ落ち、建物の残骸とみられるれんがが散らばっていた。

 海堡を研究する江戸川大の高橋克教授(民俗学)は「戦艦同士の砲撃戦が勝敗を決めた大艦巨砲主義時代を象徴する戦争遺構だ。同時に、島は役目を果たせず、はかなくむなしい近代日本の歴史と重なる」と話した。

◇海堡(かいほう) 首都防衛のため、東京湾口に3カ所造成された人工要塞(ようさい)島。旧日本陸軍の基礎を築いた山県有朋も構想に関わった。富津市の富津岬近くの第1海堡は1890年、その約2・5キロ西の第2海堡は1914年、神奈川県横須賀市の観音崎沖の第3海堡は21年にそれぞれ完成。現存する第1は広さ約2万3千平方メートル、第2は約4万1千平方メートルで、両海堡ともに立ち入り禁止だが、第2は「海上災害防止センター」が、タンカーの船員などに向けた消防訓練施設として使用。周辺は1日当たり500隻以上が往来し、両海堡が航行の目印となっている。