初めて手にしたボード 仲間と向かった太東の海 【波に魅せられて 外房サーフ物語】(1)

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森田 巖男さん
太東の海岸でサーフィンをする森田さん。1960年代に撮影したとみられる(本人提供)
岬サーフィンクラブの会員証を手にする君塚泰三さん

 一宮町役場近くで飲食店を営む森田巖男(70)は、20代前半で「近くに海があり、板1枚あればできるスポーツだった」サーフィンを始めた。初めて買ったロングボードは100ドル。1ドル360円の時代だった。

 当時、一宮の海岸の波はサーフィンに適してなかったといい、太東漁港(いすみ市)の防波堤近くで波に乗ることが多かった。愛車にサーフボードを積み込んで、仲間とともに太東に向かった。波がない時は南下し、御宿や勝浦まで足を延ばした。外房では、どこかの海に行けばサーフィンができた。それは今も変わらない。

 気に入った波が来て、乗ることができた時の爽快感が忘れられず、夢中になった。「ウエットスーツなんかない時代でね。海水パンツ1枚でサーフィンをしていて、春先は寒さを我慢して海に入ったよ。それでも楽しかったなあ」と懐かしむ。

 現在、一宮町観光協会の会長を務める森田は「一宮で五輪が開催されれば歴史に残る。一宮を世界中の人に知ってもらえるチャンス」だと思っている。

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 森田と同年代の君塚泰三(72)=いすみ市岬町=は20歳の頃、太東海岸で行われた外国人サーファーのデモンストレーションを見て衝撃を受けた。「これはすごい遊びだ。面白そう」

 地元では一番乗りで、初任給の5倍の価格だったサーフボードを月賦で購入した。メンテナンス方法が分からず、滑り止めのワックスを裏面に塗ったこともあり「板に乗れなくてね」と照れ笑いする。

 「相棒」を手に入れてからは、仕事の合間を縫って毎日のように太東海岸に通った。ボードを友人に貸すこともあり「私のボードがこの地域にサーフィンを広めたのかな」。仲間は次第に増え、サーフィンで海岸を売り出そうと愛好会「岬サーフィンクラブ」を設立。大会も開かれ、100人以上が集まって技を競った。

 サーフィンがオリンピックの種目になり、外房の海が五輪史上初めての競技会場に選ばれた。「夢にも思わなかった。(関係者には)頑張ってもらい、ぜひ見に行きたい」とサーフィン文化発展にエールを送る。

 今、いすみ市には隣町の一宮と同じように若いサーファーが波を求めて移り住んでくる。「最初に始めた一人だ」と自己紹介すると「びっくりした顔をしますよ」と目を細める。

 岬サーフィンクラブの会員番号は「1番」だった。会員証は今も大切にしまってある。

 (文中敬称略)

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 2020年東京五輪のサーフィン会場が、一宮町の釣ケ崎海岸に決まった。外房のサーフィンの歴史や五輪への思いなどを関係者に語り継いでもらう。