手賀沼に小別荘を建築 杉村楚人冠(2)

 楚人冠が我孫子に土地探しに訪れたとき、最初に目をつけたのは我孫子駅の北東高台の通称・五郎左衛門の城跡と言われる土地だった。いかにも城郭らしい風情や、利根川・筑波の峯を見渡せる開放感ある景色に魅せられ、地元の旧家・飯泉賢二に斡旋を依頼し、勝手に「白馬城」と命名し待っていた。

 が、話が進まず、格安の土地があると聞き、凸凹だらけの小さな土地だったが、街に近く南に広がる手賀沼の眺望がよいので、とりあえずの気持ちでお伊勢山と観音山の間の麦畑1反10歩(約300坪)を明治45年2月に購入した。この地が、のちに楚人冠が邸宅(現在の杉村楚人冠記念館・我孫子市緑2の5の5)を建てて住まうことになる地である。その経過が『白馬城放語』(楚人冠全集巻1)に書かれている。

 百人ほどの人夫で地ならしすると四百坪に増え、友人の持山の姫小松を一本二十銭位で百三四十本買い植えてみると、存外に美しく彼好みとなった。(松はすぐに半分が枯れた)土地にくっついた畠二筆買い足し、時々子供を連れてきて此処で弁当を食べたりした。

 さらに二反の畠地を購入。千坪ほどに増やしている。この地を「白馬城」と自ら命名。高台の方から湧き水が流れ落ち霧がかかることから高台を「狭霧が岡」、低地は「五月澤」と名付けた。ちなみに白馬城とは、『白馬非馬』(白馬は馬に非ず)の漢語から思いついたもので「つむじ曲がりの住む城」の意味である。

 購入した45年に「狭霧が岡」の片端に、六畳一間と台所と雪隠の七坪半の別荘を約百五十円で建てている。土台も柱も切り出した丸木を削りもせず、屋根は柱に切り出した杉皮を使い、できるだけ手軽に見積もらせた。その後湖水の見える方向に移転、「枯淡庵」と名付けた。移転は十人ほどの人夫で行い費用はわずか五円五十銭だったという。

 小別荘「枯淡庵」には、拭き掃除の婆やがときどき来てくれることになっていた。楚人冠は時には夜中に終列車で人知れず来ることもあった。土曜・日曜と二晩泊まりでここを使用するのが常で、その際ほとんど客は寄せず、筆も取らず、書も読まない生活で、「気が向くと、庭に下り立って、草をかり、木を伐る(中略)朝はまだきに起きて、湯に入る。湯から出て朝餉の膳で三四杯の熱燗の酒をすゝる。ほろゑい心地で、香の高い茶づけを二三椀かきこんでから、パイプの煙草を悠々と吹かせる。それから後はぽかんとして何もしない」忙しい仕事の息抜きとして、もっぱら緩やかな時間を過ごしていたようだ。

 『楚人冠の生涯と白馬城』(杉村楚人冠記念館編集・我孫子教育委員会発行)を参照した。


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