社会派の戯曲でスタート 山本有三(1)

 山本有三(1887~1974)が処女戯曲「穴」を執筆するのは、第一高等学校文科生だった明治43年(23歳)のこと。その年、落第が決定した山本は8月、足尾銅山の鉱毒事件を自ら取材し、坑道で働く労働者を描写した。社会問題への関心の高さを示している。

 山本は宇都宮藩士・山本元吉(足軽の小頭)の長男として、明治20年7月27日に栃木県下都賀郡栃木町に生まれる。(戸籍は9月1日生)本名は勇造。姉が夭折したため一人っ子として育った。

 父は明治維新後、裁判所書記などを勤め、その後呉服屋の修業を積み独立。しかし失敗。かつぎ商人となって苦労の末、「品のいいものを少し」の商法を貫き、素封家や富商・三業地などの固定客を掴み、栃木町で外商を主にした呉服業を営んだ。福沢諭吉を崇拝し「思想の深遠なること哲学者のごとく、意思の堅実なること武士のごとく、加ふるに土百姓の身体をもつてして社会の大人たるべし」を家訓にしていたという。

 不遇と貧乏から身を起こし、不屈の意思と強健な身体と努力とで出世していくその精神は、山本の代表小説『路傍の石』にも取り上げられている。何事にも屈せず、やり遂げていく精神は山本にも受け継がれた。

 山本は当時珍しかった幼稚園に女中の送り迎えで通い、跡取りとして裕福に育っている。しかし高等小学校を卒業すると、商人に学問は無用と東京浅草駒形町の呉服屋「伊勢福」に丁稚奉公に出された。中学進学を夢見ていた山本は商人に向かず、逃げ帰っている。

 明治38年に上京して正則英語学校、同予備校に通い、東京中学校の補欠試験で5年級に編入。40年に第六高等学校に合格するが、同9月に父が脳溢血で急逝した。故郷に戻り家業を継ぐものの、向学への思いから翌年第一高等学校を受験したが体格試験に不合格。さらに翌42年に再受験して一高文科に入学。同級生に近衛文麿、土屋文明、豊島与志雄(とよしまよしお)、三井光哉らがいた。43年には独逸語で落第し、芥川龍之介、菊池寛、久米正雄らと同級となった。

 島村抱月によって興された演劇近代化は、当時最高潮に達し、新劇運動や小山内薫らの「自由劇場」が創設されている。有楽座でイプセンを観劇し感動を覚えた山本は、川村花菱(かりょう)、佐藤惣之助、田中栄三らと脚本や芝居の勉強会を行っている。

 『穴』は『歌舞伎』に掲載され、東京俳優学校生徒の劇団によって高等演劇館で上演された。山本は戯曲に夢中になっていく。

 落第の屈辱は負けず嫌いの山本の向学心に火をつけ、2年修了で東京帝国大学独逸文学選科に合格した。


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