運命の人・智恵子 高村光太郎(4)

 銚子の犬吠埼で光太郎と智恵子が出会った経緯について、光太郎は「智恵子の半生」(『智恵子抄』)に記している。

 それによると、大正元年夏に「暁鶏館」に宿泊していた時、智恵子は犬吠埼の別の宿に妹さんと一人の親友と一緒に来ていて二人は偶然出会ったが、その後に智恵子は「暁鶏館」に移り、滞在したという。

 「一緒に散歩したり食事したり写生したりした。様子が変に見えたものか、宿の女中が一人必ず私達二人の散歩を監視するためついて来た。心中しかねないと見たらしい。智恵子が後日語る所によると、その時若し私が何か無理な事でも言ひ出すやうな事があつたら、彼女は即座に入水して死ぬつもりだつたといふ事であった」(「智恵子の半生」)

 当時、智恵子は新しい女性とうわさされていたが、身持ちの良い女性であったようだ。そのことは、国民新聞「女絵師(五)」(大正2年9月10日)に載った紹介記事にも記されている。

 長沼智恵子は明治19年5月20日に福島県安達郡油井(ゆい)村の造り酒屋・長沼酒造(「花霞」を醸造)の長女として生まれている。単身上京して日本女子大学家政学科に入学。テニス、自転車などスポーツを好み、絵画にひかれ、卒業後は太平洋絵画研究所に通って油絵を学んでいる。新興画家・津田青楓の影響などを受け、当時としては珍しい女流油絵画家の道を歩み始める。平塚らいてうが提起した女子思想運動にも参加、女性雑誌『青鞜』が明治44年に創刊されると、その表紙絵を担当していた。さらに「智恵子の半生」では続けて、「此の宿の滞在中に見た彼女の清純な態度と、無欲な素朴な気質と、限りなきその自然への愛とに強く打たれた。君が浜の浜防風を喜ぶ彼女はまつたく子供であつた」と書いている。「此の宿」とは「暁鶏館」のこと。二人は君が浜を訪れており、智恵子は君が浜の防風林を喜んだことがわかる。のちに智恵子が保養することとなる九十九里浜でも、智恵子は防風林を愛した。...


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