総武鉄道に乗車 正岡子規(10)

 自作小説「月の都」を携え、幸田露伴を訪ねた子規だったが、この訪問は残念ながら、小説家をめざしていた子規を諦めさせる結果となった。

 子規は「月の都」執筆以前にも、「龍門」「銀世界」「山吹の一枝」など習作を書いている。このうちの「銀世界」は知人に回覧され、編末に無名の評が付記されているが、一つは夏目漱石と考えられている。

 露伴訪問後の高浜虚子あての子規の手紙(明治二十五年五月四日)に「僕は小説家となるを欲せず詩人とならんことを欲す」と書かれている。この手紙は小説で身を立てる難しさを悟り、それでも他の形で文学を志す決心を示したものだろう。子規がしだいに俳句に打ち込んでいく、その背景がみえてくる。

 露伴との交友は、訪問をきっかけに続いている。

 明治二十五年下谷区上根岸八十八番地金井ツル方に転居した子規は、十二月一日から『日本』新聞に出社し、郷里の母・八重妹・律を呼び寄せて正月を迎える。『日本』の陸羯南(くがかつなん)の住居の西隣だったことが、子規を『日本』に近づける要因となった。陸と親しく交流。『日本』に俳句欄が新設されている。

 同年三月、帝国大学中退。翌二十七年に、今度は陸羯南宅東隣に位置する上根岸町八十二番地に母妹と転居した。子規二十六歳のこと。ここが≪子規庵≫で、この住居で子規は生涯を閉じることとなる。

 この年に千住や王子、川崎大師を巡り句作、十二月に道連れ一人と開通したばかりの総武鉄道に乗って、終点佐倉まで足を運んでいる。「鉄道は風雅の敵ながら新らしき鉄道に依りて発句枕を探るこそ興あらめ」で始まる俳文で、≪子規子≫の名を用い、「総武鉄道」の題で明治二十七年十二月三十日付『日本』新聞に掲載された。

 まず本所の割り下水で句を詠み、本所駅へ。この年は日清戦争勃発(ぼっぱつ)年で、旅客の老女が旅順について話すのを観察。発車時刻が来たが騒ぐ気配もなく、ようやく発車ベルが響き汽車に乗った。車内で切符を切ることに興味を抱き、鉄道馬車のようだと思い、「鴻の臺を左に眺めて車は転じ江戸川の鉄橋を渡り」市川に着いた。...


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