国政を担う政治家と政党は、何のために、誰のために存在しているのか|と改めて問いかけたい。端的に言うならば、政治国家の進展と国民(市民社会)生活の安寧のためではないのか。民主党の小沢一郎幹事長周辺での「政治とカネ」をめぐる疑惑は、政治資金規制法の虚偽記載で、小沢氏は嫌疑不十分で不起訴になったとはいえ、国民への説明責任を果たしたとは言えない。衆院政治倫理審査会への出席は、小沢氏の最低限の責務。加えて議員としての進退を含め政治的道義的責任を果たすべきだ。国民の疑念はいまだ解消されていない。
「政治とカネ」にからむ問題・事件では「秘書の責任は議員にも監督責任」があるのは自明。国政を担う者として、これまでの報道を揶や揄ゆし、さらに開き直りともとれる小沢氏の昨今の言動はマスコミジャーナリズムとその背景にある国民の到底納得するところではない。
今さら説くまでもなく同法は、政治資金の透明性を担保し、国民の信頼に応えるためのものであり、議会制民主主義を正常に機能させるための重要な環であったはずだ。職務権限などの立証が厚い壁となる収賄罪とは異なるとはいえ、政治家にとって同罪と同様の“重み”を持つと考えられてきたのが政治資金規正法であったはずだ。
小沢氏はかつて自著「日本改造計画」で「政治資金規正法違反者を公民権停止処分にし、違反の言い逃れを封じるために連座制も強化する」と述べていたのは紛れもない事実だ。政権を奪取し、首相と同等いやそれ以上の権力を握ってしまえば「過去の発言は過去のもの」となってしまうのか。今回の疑惑が噴出した事態を「報告書の形式的な点について責任を問われている」と意識的に矮わい小しょう化し、幹事長続投に何のてらいもない。
相対評価で民主党に票を投じた有権者は、仮にマニフェストに多少違背し、また、国会答弁が不十分だとしても、期待したのは政治姿勢の清新さと変革への可能性ではなかったか。党内で自浄作用を促す声が聞こえてこないのはなぜか。野党時代の同党の主張と現在との懸隔感はぬぐい難いものがある。当事者の衆院議員1人の離党のみでけじめがつくのか。この事態を看過しては国民の政治不信は増幅されるばかりであろう。