山頭火の句に出会ったのは、三十になったばかりの夏だった。帰省した折、大糸線の穂高駅に隣接したギャラリーに入った。扉を開けた瞬間、正面にあった梟の版画に眼を奪われた。秋山巌さんの作品で、素朴で力強い線の版画だった。梟の子の困ったような眠いようなまなざしが、何ともいえず愛しげだった。「ふくろうはふくろうでわたしはわたしでねむれない」と句が付いていた。自由律のその俳句が、放浪の俳人、種田山頭火のものだとその時初めて知った。
「何を求める風の中ゆく」「笠へぽつとり椿だった」「うしろすがたのしぐれていくか」「いつでも死ねる草が咲いたり実ったり」「まっすぐな道でさみしい」「この道しかない春の雪ふる」。
短く易しい言葉の中から、風景が鮮やかに浮かびあがる。その風景の中には、ぽつんとひとりの禅僧がいる。ひとつずつ句を拾いながら、息苦しくなってしまったことを覚えている。ひねらない言葉が、なぜこんなにも形になっているのか、素朴な句がなぜこんなにも烈しく胸に迫ってくるのか……私はその場で秋山さんの画集を買った。二冊買って、一冊は酒の句が多かったので、酒好きの友人に進呈した。残った一冊はあれから二十年、幾度かの引越しで消えてしまう本が多い中、今も私の本棚に居座っている。
俳句は<永遠>を<瞬間>の中に封じ込める言葉の魔術だとよく思う。その<瞬間>は、例えば一茶や芭蕉の句では、静止した状態で見えてくる。だが山頭火の句は違う。いくら静かな情景を詠んでも、静止ではなくそこには揺らぎがある。どの句を読んでも、心が鎮まらない。胸倉をつかまれて、それでいいのか、と烈しく問われた気分。そう、山頭火の句はきっと<答え>ではなく、<問いかけ>なのだろう。それも、哲学的な命題であり、簡単に答えが出せないもの。
版画家の秋山巌さんは、棟方志功の門人である。「化け物を観ろ、化け物を出せ」と言う師の言葉を形にしようと、古典を読み民俗学や哲学を探求し続けた。やがて、古仏や道祖神を写生する旅に出た。旅先で山頭火が書いた『草木塔』に出会い、創作意欲に火をつけられる。山頭火の歩いた道を辿りながら、山頭火の世界を版に彫りつけていった。「信じること、歩くこと、仏を観ること、仏は崇めその教えは守るが、仏に頼らないことが「ばけもの」が観える方法ではないか」と秋山さんは言う。・・・
【メモ】「版画・山頭火」秋山巌/春陽堂
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