メキシコで、〈クロコダイル・ファーム〉と書かれた看板を見かけ、ふらりと入った。そこはさびれたワニ園で、お客はまばらだった。バナナの木が茂り、その下にコンクリートで仕切られた生け簀がいくつも並んでいた。ワニがその中でひしめいていた。何処もかしこもワニだらけ。ファームと言う名からすると、あのワニたちは皮をはがされ、ハンドバッグや靴になる運命だったのだろうか。ワニの瞳にはどこか油断ならぬ光があるけれど、あの目つきには、特に凄みが感じられた。理不尽な場所に押し込められた恨みと苛立ちのまなざし、すねた目つきだった。人はワニを獰猛と恐れるが、ワニからすれば、ヒトの方がはるかに危険な存在だろう。博物図鑑を獰猛な順に並べるなら、いの一番に「ヒト」が来るのかもしれない。自然保護者も博愛主義者も、偽善者も密猟者もひと括りにされる。「哺乳類霊長目ヒト科ヒト・特徴=極めて獰猛なり」。
三十年ほど前、筒井康隆氏が毎日新聞に『私説博物誌』を連載していた。鳥、獣、植物、昆虫と幅広い分野の中から癖のある生物を選び出し、ユニークな視点で紹介していた。他はすっかり忘れたが、ワニの項だけ、やけにはっきりと記憶していた。ワニは夜中に陸へ這ってきて、寝ている人間をうしろから襲う。羽交い絞めにして後肢と尻尾で立ちあがり、ぴょんぴょん跳ねて河に連れこみ、溺れさせて喰ってしまうというもの。ワニに抱きしめられ暗がりの中を跳ねていく恐怖とその姿の滑稽さ――忘れようにも忘れられない。このワニの種類はクロコダイルで、同じワニでもアリゲーターは比較的おとなしく、人を襲うことは滅多にないらしい。
友人と歓談中、『私説博物誌』のワニの話をした。みんながいっせいに異議を唱えた。「ワニがあの短い足でヒトを抱えられるはずがないよ」「筒井さんの本でしょ、ジョークに決まってる」。
ジョーク? 不安を覚えて図書館に駆け込み、三十年ぶりに『私説博物誌』と再会した。真っ先にワニの項を読む。次に解説を読んだ。解説は動物行動学者の日高敏隆氏だった。そこには「これは正確な博物誌だ」と書かれていた。筒井氏の父上が天王寺動物園の園長をしておられたことも初めて知った。じっくりと初めから本を読み返すうちに、書かれていることの真偽などどうでもよくなった。嘘なら嘘で、もっとだまして欲しいとさえ思えてきた。
博物誌でありながら、文学に歴史に日常にと縦横無尽に糸が張りめぐらされている。シニカルな視点が、動植物をくっきりとあぶりだす。...
【メモ】「私説博物誌」筒井康隆著・新潮社