花に心が揺れた。
言わずもがなの桜の花である。その年によっても、一緒に見る人によっても、色も景色も違って見えるのが桜の花だ。節目の花。見る人の心を吸い取ってしまう花。心かき乱し、人に物思いさせる花。生き死についての憂いを呼ぶ花……桜は本当に花なのだろうか。何か別のいきものではないか、と思う時がある。
必要に迫られて、数年前、ヴォイストレーニングに通っていた。レッスンを待つ間、前の人が唄う「さくら横丁」を聞いた。ただ聞いていただけの私の耳にも、歌が残った。
「会ひ見るの時はなかろう/『その後どう』『しばらくねえ』と言ったってはじまらないと/心得て花でも見よう/春の宵/さくらが咲くと花ばかり/さくら横丁」。作曲は中田喜直、作詞は加藤周一。高音から低音へとたゆたうように落ちていくフレーズ。一緒に花を見た人はもう其処に居らず、花ばかりが咲いて散る……花に心を託しながら、託しきれない。行き暮れた思いと春の湿り気が心のひだにまで忍び込む。「さくら横丁」は悩ましい歌である。
宵は、桜の花がいっそう物哀しく、狂おしく見える刻(とき)でもある。闇に映える花の色に、折々の自分の姿が垣間見える。いつどこでだれと見たのか、桜の記憶はどれも鮮明だ。漫然と見るのではなく「時」と対峙しながら「命」を意識して眺めるからだろう。
どの桜もひとつとして同じものがなく、そばにいる人は、その時々で私のかけがえのない人だった。最初の桜の思い出には、母がいる。白っぽい羽織を着てきれいにパーマをかけて。家族との思い出、友人との思い出、亡くなってしまった人との思い出、みんな咲いて散る花の中にある。
あと何回こうして花を見るのだろう、最後の桜は、だれといつどこで見ることになるのだろう……そう思いながら、今年もまた花を眺めた。
芸における「花」なら、『風姿花伝』の「秘すれば花なり。秘せずば花なるべからず」を思い出す。花は四季折々に咲くものだからこそ珍しいので、人々が面白がる。「花と面白きと珍しきと、これ三つは、同じ心なり」と世阿弥は述べている。「花」は秘すべきもの。秘してもなお、人の心の内に思いもよらぬ感銘を与えるのが「花」だと言う。「花」は二種ある。「時分の花」は、年齢によって現れ、年が過ぎれば散ってゆく。比べて「誠の花」は、稽古と工夫を極めたところに咲き、散ることがない。
究めた道を持たない私は、能の指南書であるこの本を人生論として読んでいる。どんな人にも、きっと「花」はあるのだろう。少なくとも、若さが咲かせる「時分の花」は、誰もが咲かせられるものに違いない。若さが失せた時、「時分の花」は枯れてゆくが、その時こそ、身の内に「誠の花」を咲かせたいものだ……。
【メモ】「風姿花伝」世阿弥・岩波文庫