夕刻、スピーカーから「家路」の曲が流れて来る。隣街の曲がかすかに重なる時があり、そちらは「夕焼け小焼け」だ。秋は、ことさらにその調べが心に染みる。公園で遊んでいた子どもの声も、曲と共に、しだいに遠のいていく。
空気が澄んで、夕焼けの色が濃く深くなる晩秋。燃えるような空をホリゾントにして、家や木々が影絵の如く浮かびあがる。その風景に、心の奥底から疼きのような切なさが染み出て来る。それは、幼い頃の記憶のようなもの。私自身の記憶というよりは、父や母や祖父母にも、その曽祖父母の記憶にも繋がっている漠として捉えきれない思い……。沈んでいく太陽の向こうに、過去の国がある。そこには懐かしい人がいる。夕焼けは、そんな思いを呼び覚ます。だが、真っ赤な空はすぐに色を失い、灰色から濃紺へ。やがて、黒い帳が下りて星が瞬き始める。
子どもの頃は、つるべ落としの夕陽を甘く見て、あっという間に暗くなった帰り道でいつも泣きべそをかいていた。日が落ちた後の田舎道の不安なことといったら、木も草も石ころさえ、何か別の生き物の化身のようだった。その薄気味悪い道を、いつも家まで駆け戻っていた。暗さもさることながら、私のこの臆病は、大いに祖母の脅し文句と関係がある。祖母は、子どもを戒める為に人さらいや河童や狢や梟を引き合いに出す人だった。田んぼの真ん中に、大きな五本松があり、梟が棲んでいると言われていた。「言うことを聞かないと梟が来て目をほじるぞ」と祖母は脅した。「怖くないもん」と、その場では笑っても、暗い中に五本松が黒く浮かび上がっているのを見るともう駄目だった。目玉をほじられると震え上がり、一目散に家に戻った。今も五本松は健在だ。実家に戻る度、その姿を確める。夕刻であっても、もう怖くはない。怖くはないが、祖母の言葉に怯えていた子どもの自分を思い出し、胸がちくんとする。
『ことろのばんば』を読む度にかすかな不安を覚えるのは、黄昏時の怖さと淋しさを同時に思うからだろう。
栗拾いをしていた兄妹が、日暮れの山でことろのばんばに出会う。「こーとろ、ことろ」のまじないと共に、兄はばんばの壷の中に吸い込まれてしまう。ことろのばんばは、さらった子どもを小さくして壷の中に閉じ込めておき、時々、壷から出しては、子どもが遊ぶのを眺めるのだった。妹の方は命からがら逃げ帰り、山の神さまから姿を消すまじないを教わって、兄を救い出しに行く。姿を消した妹は、ばんばの壷を盗み出し、割ってしまう。すると、中から子どもがわらわらと飛び出し、元の大きさに戻る。みんなは力を合わせてばんばをやっつけ、村に帰って行く。
この本を子どもに読むと、皆、神妙な顔で聞く。やはり怖いのだろう。だが、ことろのばんばは、子どもを取って喰うわけではない。怖さの原因は、閉じ込められる不安、小さくされてしまう不安だろう。ことろのばんばは、子どもという未来に向かって伸びていく存在を、大事に抱えこみ阻む存在なのだろうか。
小さな子どもが遊ぶ姿を、目を細めて眺めていることろのばんばを、今の私は理解する。「淋しいよね、かわいいままで手もとに置いておきたいよね」と。だが、やはりそれは「悪」である。未来へ向かって伸びていくものを、阻んではならない。ばんばが谷底に落ちる結末に哀れを感じる気持ちを抑え、「めでたし、めでたし」と絵本を閉じることにしよう。
【メモ】「ことろのばんば」長谷川摂子・文/川上越子・絵/福音館書店
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